白と黒の宴4 31 - 35
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「そんなことねえよ!」
反発するようにヒカルが声を荒げるが、勢いがあるのは最初だけだ。
「弱気じゃねエ、…弱気なんかじゃねエンだ…!!」
はっきり動揺した表情でヒカルは俯く。
「何だあ?部屋の中まで聞こえてきたぞ。」
一旦部屋に入った社が騒ぎに顔を出したが、それ構わずアキラはヒカルを睨み据える。
一時期、理由が分からないがヒカルが囲碁から離れた時に拒食症だったのではと噂が出る程
ヒカルは体重を落としていた。その頃を思うと今はかなり健康的に回復している。
だが不安げに俯くヒカルの首筋から肩にかけてのラインはとても華奢で繊細で、アキラでも
少女のようだと思う事がある。
あれだけ望みながら、いざ強大な敵を迎える事になったとたん不安を隠し切れないでいる、
そんな精神的にも身体的にもまだ幼いヒカルを両手で強く抱き締めてやりたいと思う。
ヒカルが何か態度なり言葉なり、気持ちを落ち着かせてくれるものをこちらに求めているような
気もした。自分だって出来る限りの協力をしてやりたい。だが、
「進藤、君が何を背負っているのかは知らないが、少なくともボクの代りに大将戦に出るんだ。
無様な結果は許さない。」
思ってもいない言葉ほど次々自分の口からこぼれてヒカルにぶつけてしまう。
「塔矢…!」
さっきとは反対に社が背後からアキラを窘めるように声をかけて来た。
言葉をなくして睨み付けて来るヒカルから逃げるようにアキラは自分の部屋に入りドアを閉めた。
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夕食の間もヒカルは熱心に倉田からあれこれ検討に関する会話を続け、社とアキラは言葉少なに
食事を終えた。ヒカルはその場に倉田と話をするために残り、社とアキラはそれぞれ部屋に戻った。
仕出し弁当というかたちでも一応ホテルの高級料理だったのだが、そうした味気ない食事に社は
うんざりしていた。
食事中ヒカルとアキラは目も合わそうとせず一言も口を聞こうとしなかった。
(進藤の奴、よほどさっきの塔矢の言葉がこたえたんやろうなア…)
ベッドに横たわり、天井を見つめ、社は大きく溜め息をつく。
(しかし、塔矢も意外にガキなんやな。『彼の成長を望んでる』とか言うとったくせに、やっぱ本音では
面白くない思おうとるんやろうな…。そりゃまあ、ホレた相手が別の奴の事ばっか考えているのは
辛いやろうけど…)
そしてそんな2人の事をあれこれ心配している自分が滑稽に思えた。
「ホンマ辛いわ…今夜もまたなかなか寝つけエへんかったら、どないしよう…」
目を閉じると浮かぶのはやはりアキラだった。昨日の夜、アキラの部屋で思わず奪ったアキラの
唇の感触だった。冷たい表情とは対照的に熱く濡れて脈打つ彼の内部を想像するだけでこちらの血が沸く。
「あ、アカン…!!」
ベッドの上で飛び起き、呼吸を整える。頭を振って妄想を蹴散らそうとする。ただ、昨日より更にアキラの
顔色はひどく悪かった。料理も半分程手をつけていなかった。何となく無性にヒカルに対して腹が立ってきた。
(倉田さんも塔矢も、何かと進藤には甘いんちゃうか!?今までこういう感じだったからいつまでも
進藤はあんなガキっぽいままなんやないんか…!?誰かガツーンと言ってやらんといかんと違うか!?)
「…おし!」
決意して裸足に室内スリッパ、黒いスェットのパーカー姿のままで社は廊下に出た。
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廊下に出ると奥にヒカルの部屋、手前にアキラの部屋のドアが並んでいる。
(進藤の奴、もう寝たやろか…あいつはお子様やからな…電話かけてみたほうがエエやろか)
そう考えながら社はしばらく廊下をうろうろしていたが思いきってヒカルの部屋のドアを
ノックしようと手を握りしめ、構えた。
そしてハッとなった。
韓国戦を控えて不安で心細くなっているのは実は自分の方ではないだろうか。
明日また負けてしまったら、アキラに、師匠に、地元の碁会所の常連らに、そして親から自分がどう
見られるか。いつのまにかそれらがプレッシャーとして積み上がっていたのではないか。
(アホや、オレは…。他人に構っとる場合やない。)
1人溜め息をつくと社は自分の部屋に戻りかけた。
その時カチャリと目の前のドアが開いて、社は飛び上がりそうなくらいびっくりした。
「…社?…何をしているんだ。」
そこにはアキラが、アキラもまたそこに社が居た事にひどく驚いたような顔をして
ドアを開けたまま立っていた。
ただ社とは違って革靴にちゃんとした薄いニットのセーターと白いスラックスという外出着の姿だった。
「さ、散歩や。塔矢こそなんや。どっか出掛けるンか。」
「…眠れないから、ラウンジにでも行こうと思って…。」
俯き視線を落としてそう答えるアキラの表情を見ながら、社はしまったと思った。
もしかしたらアキラはヒカルの部屋に行こうとしていたのかもしれない。
そしてさっきの事を謝り、ヒカルを励ますつもりだったに違いない。
(しもオた!!オレが邪魔してまった…!!!)
心の中で社は頭を抱えた。タイミングの悪さに自分で呆れた。
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「そ、そうか。気イつけてな。」
あくまで表情は平静さを装いながら慌てて社は自分の部屋に戻ろうとした。
「社」
アキラの落ち着いた低い声に心臓を掴まれるように呼び止められて社は息を飲む。
「…少しだけつきあってくれないか。」
振り返るとアキラは自動ロックのドアが閉まらないよう、手で押さえて自分の部屋に体を半分入れて
待っていた。
「あ…あ」
無表情に自分を見つめるアキラの目からは何も読み取れなかったが、吸い寄せられるように社は従った。
室内に備えてあったポットとフィルターで、アキラがコーヒーを煎れてくれていた。
社は何となく落ち着かなく窓際に寄り、カーテンの隙間から外の景色を眺める。
大通りを挟んで同じような高さのホテルやオフィスビルの窓の並びが迫っていたが、建物の合間に
洪水のような星屑が溢れて煌めいている。
所々切り取られたように真っ暗な空間があった。「汐留区域開発」とかいう巨大な看板を新幹線で
来る途中見かけた気がする。何やら大きなクレーンも所々立ち並んでいた。やがてそれらの場所にも
うず高く光の塔が立ち並ぶのだろう。どんなに発展してもまだ足りないと言うように膨らんで行こうとする。
大阪も大きな都市だが、やはり東京の巨大さにはかなわない。
「冷めるよ」
「お、おオ。」
声を掛けられ、緊張した面持ちで社はぶっきらぼうに返事をする。
アキラはベッドに腰掛けてコーヒーカップを手にしていた。塔矢家での古き重厚な日本家屋の和室でも
こういう洒落た洋風のホテルの一室でもアキラが座っているだけで絵になっていた。
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社はその脇にある独り掛けの椅子に座ってテーブルの上のコーヒーに手を伸ばした。
大阪の安っぽいラブホテルでアキラを抱いた時の事を考えると、こうして2人でいるのが非現実的に感じる。
だが、これは夢じゃない。
アキラの髪がまだわずかに湿っているのが分かる。シャワーを浴びて間もないのだろう。
「眠れないって言うとったが、…どこか具合悪いンか。」
間がもたなくて思いきってそう尋ねるとアキラは首を横に振った。
「…君にはすまないと思う。進藤と同様に君にとってもこの大会は大事なものであるはずなのに…」
「何や、お前までまるで進藤の身内みたいな事言うんやな。」
社は苦笑いした。いざ会話を始めてみたらなんていう事もなく、少し落ち着いてきた。
「倉田さんの話やったらオレ全然気にしとらんで。あのおっさん、適当に思い付いた事言うとるだけや」
社の言葉に頷いていいものかどうかアキラは困惑したような顔をした。
そして小さく安堵の溜め息をついて呟いた。
「…ありがとう…。」
「へ?なにお礼言うとんのや」
「君がいなかったら、ボクは自分を保てなかったかもしれない…。」
「…それはどういう意味や?」
社が問うが、アキラは答えなかった。そしてまた沈黙が流れる。
「あっ…!」
ふいに何かを思い出したように社が素頓狂な声を上げた。
「悪い!!…塔矢、オレ…勝てへんかった…」
するとふっと力が抜けたようにアキラが微笑んだ。
「倉田さんも言っていたじゃないか。良い戦い方だったって。ボクだってギリギリのところだった。
社もヒカルも大きな対局はこれが初めてなのに、よく戦いきったと思うよ。」
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