裏階段 アキラ編 31 - 35


(31)
部屋に入るなりアキラは「わあっ」と声をあげて熱帯魚の水槽に駆け寄った。
「きれいな魚…。」
このマンションに引っ越した時、部屋の中が殺風景だからと前につき合っていた女が
自宅から運び込んだものだった。
必要以上に愛情を求めない意味では都合の良いペットだとわかり、女と別れた後も何となく
飼い続けているものだった。
「緒方さんは、魚が好きなんですか?」
ほとんど家族同然ではあったが、自然とアキラはオレに対して丁寧な言葉遣いをするようになっていた。
好きとも嫌いとも、オレは答えないまま台所で紅茶を煎れる湯を湧かした。
「いいなあ…。」
そう言ってアキラは額を水槽に押し付けている。
「アキラくんも、何か飼いたい動物がいるのかい?」
そう訪ねると、アキラは一瞬きょとんとした顔になった。
先生は決して動物が嫌いなわけではないはずである。以前、先生が廊下で腕組みをして立っているので
「どうしたのですか?」と声をかけると口に指を一本あてた。
部屋の陽のあたる場所にあった先生の座ぶとんの上で野良猫が眠っていたのだ。
だが、すぐにこちらの気配に気付いて逃げていってしまった。
「気持ちよさそうに眠っていたのに、悪い事をした。」と先生は真顔で呟いていた。

「…あの時ボクが『いいなあ』と言ったのは、違う意味だったんですよ。」
アキラと何度か夜を共に過ごすようになったある時彼はそう話した。


(32)
「あなたに飼育されて自分の人生の一切がその人の手の中にある…、あなたが餌を与えるのを
止めてしまえばこの水槽の中で静かに飢えて死ぬしかない。そんな彼等が羨ましかったんです…。」
ベッドの隣で天井を見つめながらそう話すアキラの横顔を、少し驚いて眺める。
するとアキラはクスリと悪戯っぽく笑った。
「冗談ですよ。小学校3〜4年生のボクがそんな事考えるわけありません。」
そして今度は真剣にその時の事を思い出そうとするかのようにアキラはしばらく黙って考え込んでいた。
「…確か、その時“お泊まり”がはやっていたんですよ。仲の良い友だち同士数人で、
一人の家にみんなで泊まるんです。着替えを持って。でもボクにはそこまで親しい友だちはいなかった。
それに多分、必要もなく他人の家に泊まる事をボクの親は許さなかったでしょう。」
「オレの部屋に泊まりたかったのか?。」
「ええ、とても。バスルームもトイレも家とは全然違うし、台所には変わった道具が多いし。」
「熱帯魚は“お泊まり”しているわけじゃあないんだが…」
「この魚達はこの部屋にずっといられて羨ましいと思ったんですよ。」
アキラが体の向きを変えてオレの首に腕をまわし、胸に顔を埋めてきた。
しばらくすると安らかな寝息を立てる。
その吐息を感じながらアキラが始めてこの部屋に泊まった日の事を考える。

しばらくは当初の目的であったパソコンの前にアキラを座らせ、適当に画面を見せながらマウスに
触らせて操作させてやる日々が続いた。
殆ど毎週土曜日の午後になると、アキラはやって来た。


(33)
そんなに長居するわけでもなく、熱帯魚の水槽を覗き、パソコンで棋譜を
引っ張りだして眺め、そして帰って行く。
こちらに用事があって留守にする時はそれとなく伝えた。
特に約束をするわけでもなく、塔矢家で顔を合わせた時もお互いにその事を口にしなかった。
いろんな物に好奇心が働く年頃だ。目新しいものに一通り馴染んだらすぐに飽きるだろう。
その位に思っていた。
だが思った以上にアキラはパソコンに興味を持ち、基本操作を覚えると
そのうちオレの部屋でパソコンの前を占領する時間が増えて行った。

「アキラが君のところにパソコンを習いに行っているようだね。この前初めてアキラから
聞いた。迷惑をかけていたようだ。すまない。」
研究会の折りにふいに先生からそう言って頭を下げられて慌てて答えた。
「いえ、…別に迷惑というほどでは。ただ、アキラくんはパソコンが気に入ったようです。」
間もなくアキラにそのパソコンが買い与えられ、それからぷっつりアキラは来なくなった。
現金なものだな、と思った。
まあこれで土曜日に気兼ねなく外泊が出来ると考えれば少し肩の荷が下りた気がした。
彼女の一件以降、何となくアキラに見張られているような、そんな気がしないでもなかった。
ある時塔矢家に訪れた際にアキラの部屋を覗いてみると、アキラが自分のパソコンに向き合っていた。
「なかなか良い機種を手に入れたじゃないか。調子はどうだ。」
アキラはモニターから視線を外そうとせず、ぽつりと呟くように言った。
「まだうまく出来ない…。でも、お父さんが、緒方さんに頼ってばかりいるのはいけないって…。」
そしてアキラは睨むようにしてこちらを見た。
「ボクが来るのは、迷惑でしたか…?」


(34)
一瞬、返答に詰まった。
迷惑だったと言ってしまえば、恐らく二度とアキラはうちにやって来なくなるだろう。
迷惑などではなかった。決して。
つき合っている女が出入りする事よりアキラが出入りする事をオレは選んだのだ。
餌付けをした野鳥が軒先きでくつろいで行くのを眺めるように、それは、特に目的も意味も無い時間の
ようであったが、二人にとって必要な時間だった。そんな気がする。
そこには暗黙の了解が合った。自分達は密かに一緒に時を過ごす事を楽しんでいた。
だがそれはどちらかが一歩足を踏み込めば何かが崩れ、バランスをなくして掻き消えてしまう空間でも
あった。これ以上時間を重ねれば、確実にその時はやって来る。
現に今、アキラがその一歩を踏み出そうとしているような気がした。
情けないがそう感じた。アキラの強い視線に怯んだのだ。
「…わからない事があったら呼んでくれればいい。いつでもここに来て、教えてやるよ。」
自分で自分に嫌悪する曖昧な返答だった。アキラの瞳が失望に沈むのが見て取れた。
「…大丈夫です。多分…、一人で…。」
声を固くし、視線をモニターに戻す。
「…芦原さんにでも、教えてもらいます。」
それはアキラの精一杯の防衛線に思えた。
オレはただ黙ってその場所から離れた。おそらくアキラはもう来ないだろう。
ふいにアキラがやって来ても困らないように無意識のうちに買い置きしてあったジュースや
パウンドケーキの類を冷蔵庫の奥に押し込んだ。

その後日、思い掛けないかたちでアキラは再びここに来た。


(35)
先生があるタイトルの防衛戦で四国に滞在している間に、九州に住んでいた先生の囲碁界の恩師の
訃報が届き、急きょ明子夫人が喪服などを用意して先生と共にそちらに向かう事になった。
連絡を受けて塔矢家に出向き、準備の手伝いをし空港まで夫人を送るために車に荷物を運び込んだ。
その間も電話が何度か鳴り、夫人はその対応に追われていた。
そうしているうちにアキラが学校から帰り、家の中の慌ただしさに驚いた顔をして廊下に佇んでいた。
「やはりアキラさんも連れていこうかしら。」
手早く夫人はアキラに事情を説明した。東京に住んでいる親類にアキラを預けようか迷っているようだった。
「お母さん、ボク、…緒方さんのところに行きたい。」
アキラがそう母親に話すのを聞いて驚き、アキラを見た。アキラもこちらを見つめていた。
「何言っているの。緒方さんもお仕事があるのよ。我儘はだめよ。」
夫人にそう言われて強く手を握られるとアキラは唇を噛んで俯いてしまった。
その姿は年相応に小さくて儚げに見えた。アキラが普段あまり交流のない親類の家に泊まる事に
不安を感じているのは見て取れた。
「オレはかまいませんよ。」
思わずそう口にしていた。するとアキラ以上に明子夫人がオレの言葉に安堵した表情を見せた。
「そお?そう言ってくれるなら…申し訳ないけど、緒方さん、アキラをお願いします。」
彼女らしいといえばそういう対応だった。
どうでもいい事だが、明子夫人のオレの呼び方は「セイジくん」から「緒方さん」に変わっていた。
門下生に対する態度の事で何か周囲の者に言われたらしかった。
ただその時はとにかく予定の飛行機に夫人を押し込む事で精一杯だった。
夫人を見送って塔矢家に戻ると、アキラは既に自分で自分の荷物を小さなバッグに詰めて
家の戸締まりを済ませ、玄関先にちょこんと座って待っていた。



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