金魚(仮)(痴漢電車 別バージョン) 31 - 35


(31)
 元気な挨拶の声が教室中に響き渡る。アキラは大急ぎでランドセルに荷物を詰め込むと、
慌てて教室を出て行った。
 アキラのたった六年ぽっちの人生の中で、これ以上ないくらい必死に駆けた。
「ただいま」
と、家の奥に向かって声をかけ、靴を行儀悪く脱ぎ散らかす。玄関先にランドセルを投げ出して、
廊下を走った。
 アキラは、父がいつも研究会で使っている部屋に飛び込んだ。しかし、文机の上には金魚鉢は
置いていなかった。

お母さんがボクの部屋に持っていったのかも―――――

 アキラは今度は自室へと走った。だが、そこにも金魚はいなかった。
「お母さん、お母さん!」
いつものアキラらしくもなく、大声で母を呼びながら家中を探し回った。

 「あ、いた。」
台所のテーブルの上に、ぽつんと置かれた金魚鉢を発見した。
「あれぇ…?」
その中は空っぽだった。水はある。敷石も水草もある。それなのに肝心の金魚がいない。
「どうして?」
嫌な感じがする。
 その時、庭の方から声がした。どうやら、アキラを呼んでいるらしい。
 アキラは行きたくなかった。それでも声に引きずられるように、のろのろと足が勝手に動く。
「アキラさん、帰っていたの?」
縁側に手を付いて、母が家の中を覗き込んでいた。腕を捲り、右手には園芸用の小さなスコップが
握られていた。
「うん…ただいま…」
 母の手元には小さな箱が置いてあった。アキラはそこから目を逸らそうとしたが、どうしても
できなかった。白木の小箱に何が入っているのか――聞かなくてもわかっていた。
「アキラさん…金魚ねえ…」
「ボクがごはんあげなかったから?」
アキラは箱を手にとって、表面を撫でた。だんだん、輪郭がぼやけていく。
「ちがうわよ。朝は元気だったの…でも、さっき見たら、鉢から飛び出してしまっていたの…」


(32)
 ボクが冷たくしたから、追いかけてこようとしたんだ――――
アキラは咄嗟にそう思った。ただの思いこみだったかもしれない。金魚にそんな感情があるとは
思えない。
それでも自分にはそうとしか思えなかった。
 そっと蓋を開けた。白い綿が敷き詰められて、その真ん中に赤い小さな金魚がぽつんと
横になっていた。
 開かれたままの大きな目が悲しげで、責められているような気持ちになった。
「ごめんなさい…」
アキラは堪えきれず、とうとう泣いてしまった。

 庭の一番日当たりのいい場所に、小さな箱を埋めた。
「アキラさん…寂しかったら……」
母はそこまで言いかけて、口を噤んだ。みなまで言わないうちに、アキラが首を振ったからだ。
―――――だって、ボクの金魚はこの子だけだもん…他の子はいらない…
アキラは鼻をすすり上げて、箱の上に土をかけた。小さな白い箱はすぐに見えなくなってしまった。


(33)
 ああ、きっちりしっかり全部思い出してしまった――――
ヒラヒラ可愛いヒカルを見て、ヒラヒラ可愛い金魚を思い出す。小さいところ、元気なところ、
人なつっこいところ、全部重なる。恋にも似た甘酸っぱい感情まで全部全部。おまけに
あのころの自分のバカな独占欲――今もあんまり変わっていないが――まで思い出して、
がっくりと項垂れた。あの時、もう意地を張るのはやめようとあんなに誓ったのに………
『ボクは、全然成長してない…』
 アキラは、まだグズグズと泣いているヒカルの方をチラリと見た。両手を膝の上に置いて、
スカートを握り締めている。顔は涙でぐしゃぐしゃだ。
 薄暗い電灯の明かりの下でさえわかるくらい、額も頬も首筋まで真っ赤に染まっている。
それがまたあの時の金魚を連想させて、アキラは大きく溜息を吐いた。
 その瞬間、ヒカルが弾かれたように顔を上げ、キッとアキラを睨み付けた。
「バカ…バカ…なんで…いつもそんな目で見るんだよ…いっつもそうやって、溜息吐いて…」
ヒカルはしゃくり上げた。
「いつもそうやって…オレが悪いみたいに…」
「え…?いや…ボクは別に…」
アキラの言葉はヒカルの耳に届いていない。ヒカルは涙をポロポロと零しながら、途切れ途切れに
話し続ける。
「オマエがそんなだから…オレは…自分が…悪いみたいな気分になって…」

「オレが男で悪いみたいに…………」

「オレは…自分が…女だったらとか…思ってなかったのに……」

「オマエが…オレを…責め…るみたいに…見るから……だから…」

 アキラは頭の中が真っ白になってしまった。


(34)
 ボクが彼をいつ責めたというのだろうか―――
だけど、全くの濡れ衣と言うわけでもないのが、辛いところだ。確かに、ヒカルが女の子だったらと
思ったことはある。実際、今時小説でもないようなそういうシチュエーションの夢を見て、
慌てたことも一度や二度ではない。
 だが、実際はそんなことがあるはずもなく、ヒカルの笑顔は性別など関係なしにいつでも
自分を魅了した。
 アキラは混乱している頭の中をひとつずつ整理した。
「えーっと、つまり、その恰好はボクの為?」
胸がドキドキしている。もしも、彼も自分と同じ感情を抱いてくれていたら――
 だが、ヒカルはつれなく言い放った。
「違う!オマエのためなんかじゃネエ!酒を飲んだからだ!それで、ちょっと遊んでみただけだ!」
額がくっつくくらい間近にヒカルの顔があった。涙に濡れた瞳がアキラを強く睨んでいる。
「そうだね…キミ、酔っているんだ…だから…そんなこと言うんだ…」
アキラは視線を落とし、また小さく溜息を吐いた。

 「違う!酔ってネエ…!酔ってなんかいねエ………!なんでわかんねえんだよ…」
ヒカルは、アキラにしがみついた。アキラの肩に顔を埋めて泣いている。その背中に躊躇いながら
腕をまわした。
 ヒカルは「酔っている」と「酔っていない」繰り返す。アキラが悩んでいたように、ヒカルも
ずっと悩んでいたのだ。

 「ゴメンね…」
ヒカルの耳に吐息のような声で囁いた。ヒカルがゆっくりと顔を上げて目を閉じた。
『いいのかな?いいんだよね?』
アキラはそっと唇を重ねた。


(35)
 初めてのキスは何の味もしなかった。よく言うようなレモンの味もミントの味もしなかった。
強いて言うなら、水の味がしたような気がする。
 ゆっくりと唇を離して、ヒカルの顔を正面から見つめた。大きな瞳が同じように、アキラを
見つめていた。
「…………ビールの味した?」
「しなかった………」
「じゃあ、何の味がした?」
「何も………」
ヒカルが不思議そうな顔をした。
「オレはしたよ?」
「どんな?」
「甘かった…」
それだけでは足りないと思ったのか、彼は少し考え込むように唇に手を添え、続く言葉を探していた。
「…えっと、アイスクリームみたいな味がした…」



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