光明の章 31 - 35


(31)
早朝、ヒカルは加賀の家から駅まで続く一本道を軽い足取りで進んでいた。
平日なら交通量の多いこの界隈も、日曜日とあって人影もまばらだった。
澄んだ空気を胸に吸い込むと、全てが新しいエネルギーに変わる。
昨日我が身に降りかかった災難が嘘のような清々しい朝の始まりに、
ヒカルの心も自然と晴れやかになっていった。
再会のきっかけはとんでもない場面だったが、結果、加賀と話せて良かったと思う。
八方塞でもうどうしようもないと決め付け、自暴自棄になりかけたが、
心の中に鬱積していた感情を泣きながらぶつけたおかげで、かなりすっきりした。
ずっと誰かに話を聞いてもらいたかった。泣いて縋りたかった。
受け止めてくれるのなら誰でもかまわないと思っていたが、それは大きな間違いだと気付く。
相手が加賀だったからこそ、自分はこんなにも穏やかでいられるのだ。
小さい子供のように甘えてしまったが、別に後悔はしていない。
歩いていく内に、お目当てのコンビニに辿り着いた。
ヒカルは手にしていた自分の服を紙袋ごとゴミ箱に投げ入れ、店内に入った。
とりあえず空腹感を和らげる応急措置としてレモン味の炭酸水とおにぎりを2個購入し、
コンビニの駐車場にしゃがみ込んで食べた。
そしてしばらくその場に留まり、これから何をするべきかを考えた。
アキラと話さなくなって二ヶ月近く経つ。
自分から徹底的に避けていたとはいえ、その間アキラからのアプローチは一切なかった。
日本棋院で頬に触れてきた、あの日が最後に見たアキラだ。
痛むような表情が、今もヒカルの胸に消えない。
──嫌われたかもしれないな。
熱っぽくかき口説かれ、一夜を共にし、部屋の鍵まで渡されたというのに、
ヒカルはアキラに放って置かれたままだ。
嫌われたのならそれは自業自得なので仕方がないと思う。
だが、生涯アキラと碁を打ちたいという自分の気持ちは今も変わらない。
もう一度ちゃんと会って、アキラに伝えなければ。
「よし」
ヒカルは立ち上がった。飲み終わったペットボトルとおにぎりの包装紙を捨て、
再び駅の方へと歩き始めた。
朝日がビルの谷間から顔を出し、静かな町並みを明るく照らし始める。
まぶしい太陽の光を浴びると、全てがリセットされ、生まれ変わったような気持ちになる。
どんなに辛い夜がきても、明けない朝はない。
今日がダメでも明日、明日がダメなら明後日がある。
本当にアキラに嫌われていたとしても、ヒカルは引き下がるつもりなど毛頭ない。
何度でもぶつかって、もう一度アキラを自分のものにする。
そう、決めた。
ヒカルは大きく伸びをし、駅までの残り数メートルを元気いっぱいに駆け抜けた。


(32)
火曜日。ヒカルは森下九段の研究会に参加していた。
若獅子戦が近いこともあって、森下の檄もますますヒートアップし、
普段聞き慣れている合言葉「打倒!塔矢門下!」も切羽詰まった響きを帯びる。
森下門下一同、いつも以上に気合の入った検討会となった。
「和谷。進藤」
「はい」
森下に呼ばれ、二人は居住まいを正した。
「今度の若獅子戦、お前たちの実力なら優勝も決して夢じゃあない。
だからあえて言うぞ。どっちでもいい。今年こそ、塔矢アキラを止めろ!」
「…う、師匠それはきびしーッスよ」
苦笑いで頭を掻く和谷に対し、ヒカルは真剣な眼差しで森下に言った。
「優勝はわかんないけど、オレ、塔矢に負ける気なんてないです」
ヒカルの頼もしい返事に気を良くした森下は、
「その心構えが大事なんだ。和谷、お前も進藤を見習え。戦う前から負ける準備してどうする!」
と言い、和谷の背中を力の限りひっぱたいた。
「いってェ!何するんだよ、師匠」
「たるんでる気持ちに喝を入れてやったんだ」
目に涙を浮かべて痛がる和谷の様子に一同は大爆笑した。ヒカルもつられて笑った。
数時間後。激しく始まった研究会は和やかに終了し、ヒカルは和谷と共に日本棋院を後にした。
並んで歩く帰り道、和谷が思い出したように口を開いた。
「そういえば、この間の夜、お前んちの親から電話があったぞ」
「この間っていつだよ?」
「一緒に銭湯に行った日。夜の11時過ぎだったかな、お前が家に戻って来ないって心配してた」
「──ああ」
それは加賀の家に泊まったあの日だ。銭湯からの帰り道、ヒカルは暴漢どもに襲われた。
加賀と筒井の機転で、その夜は偶然再会した筒井の家に泊まった事になったのだが、
それでも直接連絡を入れなかったり、服を勝手に処分したりで母親からこっぴどく叱られた。
「あ、あの日は中学の先輩と偶然会って、話し込んでたら遅くなってそのまま
泊まっちゃったんだよ。…ゴメン、迷惑かけたな」
「別に迷惑じゃねーけどさ…」
心なしか声のトーンが低い。何か気に障るような発言をしたかとヒカルは和谷の顔を覗き込んだ。
「オレ、なんかマズイ事言った?」
「ん?いや、そうじゃなくて」
和谷は少し笑い、歩みを止めてヒカルに言った。
「オレたちプロの同期生だけど、お互いの事何にも知らないなーと思ってさ」
「………」
「それはそれでいいんだろうけど。親しき仲にも礼儀ありって言うし。でもオレ」
手持ち無沙汰の両手をポケットに突っ込んで、それでもヒカルから視線を逸らさずに
和谷ははっきりと告げた。
「オレ、お前とちゃんと友達になりたいんだよ」


(33)
和谷とはすでに親しい友達として今まで接してきたつもりのヒカルは、和谷の言葉に面食らった。
院生時代から何かとつるんで、あらゆる場面で行動を共にしてきたというのに、
和谷にとっての自分は単なる院生仲間の一人にしか過ぎなかったというのだろうか。
返す言葉を失い、眉を寄せて考え込んでいるヒカルの顔を見て、和谷は慌てて訂正した。
「ワリィ、上手く言えないんだけど、お前の事を大事な友達だとは思ってるんだ。
だけど、やっぱ遠慮してる部分も沢山あるから、そーいうのをなくしていきたいんだよ」
和谷はそう言うと再び本通りへと足を向け、一人、先に歩き始めた。ヒカルも無言でその後に続く。
ついて来たヒカルの気配を背中で感じ取ると、和谷は一瞬の逡巡を見せ、やがて口を開いた。
「…去年、お前が長期間手合を休んだ時、理由がわからなくってやきもきしてた。オレだけじゃない、
みんな同じように心配してた。で、最終的にみんなオレに訊いてくるんだよ。
“和谷、お前進藤の友達だろう、何か聞いてないのか”ってさ」
「………和谷」
そう言えばあの時、和谷は自分を心配して家近くの公園まで様子を見に来てくれていた。
佐為が消えた後の情緒不安定な状態では、性根の真っ直ぐな和谷とちゃんと向き合える筈もなく、
また丁度良い言い訳も思いつかなかったことからヒカルは一方的に逃げ出したのだが、
今思えばあれは誠意のない対応だったとヒカルは素直に反省した。
しかし、あの時、ヒカルは本気で碁を辞めるつもりだったのだ。


佐為の話を伏せたまま、バカ正直に和谷に相談していたとすると、
早々にキレられ愛想を尽かされていたかもしれない。
しかも直情型の和谷のこと、頑固者のヒカルに思い余って正義の鉄拳を振るうという
最悪の可能性も否定できない。
そう考えると、自分の遠回りは全てが間違いではなかったはずだと、
ヒカルはほんのわずかな正当性を心の中で主張した。
だが、それでも何も語られない方は淋しい思いをするものなのだ。
「あ、別に責めてるわけじゃないからな?今はこうして戻ってきてるんだし。
ただ、あの時思ったんだ。なんでも気兼ねなく話せる存在になりたいって」
そう願う事は分不相応だろうかと和谷は考える。相手の全てを知りたいと思うのは自分のエゴだ。
だが、最近沈んだ様子を見せるヒカルをこのままにしてはおけない。
手遅れにならないよう、正しい道筋を示してやる事が出来るのなら──。
「だからな、進藤。オレもまだガキだし、全然頼りないけどさ。もしまた迷ったり、
悩んだりして不安になった時は、出来ればまっ先に相談して欲しい。
──オレ、お前のそういう友達になりたいんだ」
「和谷、お前」
「………カーッ、あらためてこんな事言うのってハズカシイなー、ハハ」
和谷はそう言うと、気が抜けたように大声で笑った。照れからか、ヒカルをなかなか振り返らない。
ヒカルは和谷の気持ちをありがたく受け取った。あったかい、胸に直接沁みる言葉だった。
佐為の事も、そして自分と塔矢のことも気軽に相談出来る話ではない。
すでにそこで和谷の期待を裏切っていることが、なんだか申し訳なかった。
「…和谷、お前っていいヤツだったんだなぁ」
「テメ、あんだけ世話してやったのに今ごろ気付いたのかよッ」
ものすごい剣幕でヒカルに向き直った和谷に、ヒカルはしてやったりと笑顔を見せた。
「やっとこっち見た。……ホント、バカみたいにいいヤツだ」
言いながらヒカルは、自分より背の高い和谷の体をギュッと抱き締めた。


(34)
「オレ、もう、大丈夫だから。…心配かけてごめん」
一語一語はっきりと、和谷にではなく己に確認するようにヒカルは言った。
この先残っているのは、自分自身で決着をつけなければならない問題ばかりだ。
誰かに頼れば、また自分を棚に上げて責任転嫁をしてしまうかもしれない。
ヒカルは弱さを隠し、まだ己の内部にくすぶり続けている未来への怖れを飲み込んだ。
揺るぎない決意に、和谷を抱く腕にも自然と力が入る。
「オ、オイ進藤。みんな見てるって」
すれ違う通行人が、少年達の奇妙な抱擁を怪訝な顔で一瞥していく。
和谷の声に、ヒカルは慌てて腕を解いた。
「──帰ろうぜ」
平静さを装い再び先に歩き出した和谷だったが、実はヒカルに抱きつかれ、
かなり動揺していた。自分も抱き締め返すべきかと両手を宙に彷徨わせたが、
何故か勇気が出なかった。男相手に何やってんだと自嘲しつつも、
やましい気持ちがあったわけでもないのに躊躇う方がおかしいのではないかと
詮無い言い訳を繰り返していた。
和谷の心境の変化になどヒカルが気付くはずもなく、肩を並べて話し掛けてくる
その無邪気さに、和谷は深い溜息をついた。
──コイツ、鈍感なとこあるもんなぁ…。
しかし、それもまたヒカルの個性であり、元来悩み知らずとも言える明るい性格ゆえ、
思い詰めた表情で一人沈んでいる姿を見てしまうと、
どうしても放って置けなくなるのだ。
そう思っているのは、和谷だけではない。
「じゃあ、また明日な」
心ここにあらず、といった様子で適当に相槌を打っていた和谷は、
別れを告げるヒカルの声で我に返った。
日本棋院からここまでずっと話をしてきたが、肝心な内容については何一つ覚えていない。
和谷のアパートへは左の道、ヒカルは大通りを真っ直ぐに進む。
毎回二人はここで別れるのだが、何故か今日は言葉にならない寂しさが和谷を襲った。
もう少しヒカルと一緒に居たい、もう少しだけ話をしたい。
一秒ごとにガキのような衝動がどんどん込み上がり、胸を締め付ける。
気が付けば、和谷はとっさにヒカルの腕を掴んでいた。
「和谷?」
「あ……」
縋るように引き止めた和谷の手が、ヒカルの体温を捕らえる。
伝わる温度に一瞬我を忘れかけたが、和谷はなんとか苦し紛れの言葉を発した。
「──メシ、食って帰らねぇか」
「どうしたんだよ、急に?」
「まだ時間あるし…話したい事もあるし」
「ふーん。いいよ、別に」
ヒカルは腕時計に目をやり、この時間なら大丈夫かと快く了承した。


(35)
その昔、何を食べるかで揉めたことのある二人だが、今回は和谷が遠慮して
ヒカルに選択権を譲ったので、夕飯はあっさりとラーメンに決まった。
しかしあいにく付近にそれらしい店はない。二人はラーメン屋を求めてうろうろと彷徨い歩き、
程よく腹の空いた頃、繁華街と商店街の境目にちょこんと建つ1件の中華そば屋に辿り着いた。
「ここでいいか?」
「ラーメン食えるんならどこだっていいや、オレ」
うるさく鳴る自分の腹を擦りながら、ヒカルは投げやりな声を聞かせた。
「じゃ、決まりだな」
先ず和谷が暖簾をくぐり、ヒカルがその後に続く。
二人を迎えたのは「へい、らっしゃい!」の元気な掛け声と飛び交う怒号だった。
カウンター越しに見える厨房では火災現場と見紛う程の炎が中華なべから噴き出し、
周囲の壁を異常に赤く染めていた。自らも炎に照らされ赤鬼のようになった店主が
若い従業員にケンカ腰で指示を出す。二人はおっかなびっくりで奥のテーブルへと腰掛けた。
「迫力ある店だな…」
男の戦場的なノリに気後れしている和谷をよそに、ヒカルは早々にメニューを決めたようだ。
「オレは普通のラーメン。和谷は?」
「んー、オレはチャーシューメン。プラス餃子と焼飯」
「焼飯いいな、オレも食べよーっと」
従業員が注文を取りに来た後、ヒカルはお冷やを飲みながら上目遣いに和谷を見た。
「話したい事があるって言ったけど、何?」
和谷は言葉に詰まった。実際、わざわざ場所を変えてまで話す事など何一つないからだ。
まさか“お前と一緒に居たかっただけなんだ”などと正直に答える訳にもいかず、
和谷はうまい理由が見つかるまでの時間稼ぎをする為、即答を避けた。
「ラ、ラーメンが来てからゆっくり話すよ」
その時、天井近くに設置されているテレビから夕方のニュースが流れてきた。
読み上げられる数々の出来事にしばらく耳を傾けていると、スポーツコーナーの後
大型連休お勧めスポットの特集が始まった。
──大型連休!これだ!
数週間前、和谷は棋院から連休中の予定を聞かれていた。
それは仕事の依頼で、偶然予定の入っていなかった和谷はその場で快諾したのだが、
どうやらこの話が今のピンチを救ってくれそうだった。
「ラーメン、チャーシュー、餃子、焼飯二つ。以上でよろしかったでしょうか?」
頼んだ品を全て運び終えた従業員が再度確認する。二人は間違いないと頷いた。
割り箸と散蓮華を互いに手渡し、待ち焦がれたラーメンに口を付ける。
とことん腹を空かしていた二人は、あまりの美味さに声を失い、しばし無言で食べ続けていた。
ようやく胃が落ち着いてきた頃、和谷は思いついた話の内容をヒカルに告げることにした。
「進藤、連休の予定ってどうなってる?」
「特に決めてない」
言いながらヒカルは焼飯をかっこむ。和谷は自分の餃子の皿を差し出し、言葉を続けた。
「これも食っていいぞ。ところで、5月の休みの日なんだけど…」



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