黎明 31 - 35


(31)
彼の魂がまだこの世にとどまっているのだとしたら。
ぞくり、と身体が震えた。
これは、恐怖だろうか。
佐為が、佐為の魂がまだここにあるのだとしたら。
ざわざわと身が震え、皮膚が粟立つ。
佐為の魂が未だこの世にあり、自分を、あれから今までの自分を見ていたとしたら。
目の前が暗くなり、恐怖に身体が震え、ヒカルは思わず我が身を抱きしめた。その瞬間、恐怖は
猛烈な飢餓感へと変貌し、ヒカルを襲った。忘れていたはずの喪失感に、自分の身体を支える事
も困難だった。そして誰かに助けを求めたくて振り向いたヒカルは、そこに更に自分を極寒の地へ
突き落とすような冷たい視線を見た。
冷酷といってもいいほどの厳しい眼差しがヒカルを見ていて、思わずヒカルは恐怖に目をそらした。
半身を起こし咄嗟にそこから逃げ出そうとしたヒカルの腕をアキラの手が掴み、黒く鋭い瞳が咎め
るようにヒカルを見つめていた。
「……放せ…」
アキラは答えない。答えずに彼の両手首を捕らえ、無言のままただ彼を見つめる。研ぎ澄まされ
た鋭利な刃のような、その視線が恐ろしい。
「放せっ!」
振り切るように叫んで目をそらし、彼から逃れようともがくが、捕らえられた両手首はぴくとも動かす
事ができない。
「嫌だっ!おまえなんか嫌いだ。俺を放せ。俺をあそこへ戻せ。こんな所は嫌いだ。嫌なんだ。
夢に逃げて何が悪い?思い出させるな。俺に。
おまえに何がわかる?何がわかるって言うんだよ!?」


(32)
「寒い…」
アキラの手の中で、ヒカルの体が小さく震えだした。
ゆっくりと面をあげ、アキラを見上げたその目は、もはやアキラを認めてはいなかった。
「寒いんだ…。」
大きく虚ろな瞳に涙が浮かび、縋るようにアキラを見上げた。
「寒いんだ…俺を、あっためてくれよ…」
その視線に今度はアキラが怯んで顔を逸らせた。
捕らえた両手首から彼の震えが伝わってきた。抗おうとしていた腕にはもはや力も無く、力弱い
瞳が縋るようにアキラを見ていた。逃れようとしていた身体は今度は逆に近づいてきて、そして
ヒカルは体当たりするようにアキラの胸に頭をぶつけた。
アキラはヒカルから目を逸らし、顔を歪ませながら、ぶつかってきた震える身体をかき抱いた。
熱い身体にしっかとしがみついたヒカルの口から、もういない人の名が漏れた。
「佐為…」
佐為、じゃない。これは佐為じゃない。
佐為は、あの優しかった佐為は、綺麗だった佐為は、熱く自分を抱きしめてくれた佐為は、もう、
いない。もう、どこにもいない。
切り揃えられた髪の毛先が頬に当たる。
違う。
知っているのは、覚えているのは、さらりと頬から肩に落ちた、長い艶やかな髪。香の焚き染め
られたその髪も、衣も、身体もうっとりとかぐわしい香りがした。その長い黒髪に手を絡め、顔を
引き寄せて、あの美しい唇にくちづけした。我が身を抱きしめた腕は強く、胸は広く、優しげな面
からは想像もつかないほど逞しかった。
でも。あの佐為はもうどこにもいない。


(33)
ここにいるのは佐為じゃない。今自分を抱きしめているのは、自分が抱きついている身体は、佐為
じゃない。欲しいのは佐為なのに、どうして佐為がいないんだ。こんなもの、こんなもの欲しいわけ
じゃない。俺が欲しいのはこの身体じゃない。
「嫌いだ。」
涙を流し、目の前の身体にしがみつきながらヒカルは言った。
「おまえなんか嫌いだ。おまえなんか佐為じゃない。欲しいのは佐為だ。佐為だけだ。
おまえなんか要らない。佐為を返せ。俺に、俺に佐為を返せ…!」
そういいながら、背中に爪を立てる程に必死にしがみつき、ただ、その身体の熱い体温と拍動を、
確かな身体の重みを求めた。ぎりぎりと締め上げるように抱きしめる腕の強さが心地よかった。
燃え上がるような身体の熱さが心地よかった。
「おまえなんか嫌いだ。嫌いだ…」
言いながらヒカルは熱い涙をこぼした。
けれど、どれ程の涙を流しても、失われたひとが還ってくることはない。決してない。
ならばせめて俺が今ここにいるという証を与えてくれ。俺を望んでくれ。俺を欲してくれ。
「寒い…」
そしてこの身を暖めてくれ。失ったものを取り戻す事ができないのなら、せめて一時、この空虚な
闇を埋めてくれ。
寒いんだ。
寒くて寒くて仕方がないんだ。闇が、俺の中の闇が俺の熱を奪い、冷え冷えと全身を内から腐蝕
させて行く。だから、俺を暖めてくれ。外からも内からも、俺を暖めてくれ。
「寒いよ、寒いんだよ…俺を、あっためてくれよ…」
けれど灼熱の身体は彼を抱きしめはするものの、彼が最も求めるものは与えられず、願いは聞き
入れられる事はなく、ただ涙だけが頬を伝わり枕に落ち、そのまま褥に吸い込まれ、手が届くところ
に求めるものがありながらもそれを奪い取る事のできない焦燥感に彼は身を焼き、ついには己の
望むものが何だかもわからなくなり、ただ熱い炎に飲み込まれ、そして飢餓と絶望との混乱の内に
意識を失っていった。


(34)
泣き疲れたように重い眠りに落ちていく少年を宥めるように、その背を、髪を撫でながら、腕の中
の少年が思う人を、自分もまた思う。
美しく優しかったあの人を、自分もとても好きだった。
そしてその人を求めて自分の胸で熱い涙を流す少年を思い、逝ってしまった人を責め詰る。

なぜだ。
なぜ逝ってしまったんだ。彼を残して。
いっそ彼を連れてどこへでも逃げ落ちればよかったではないか。
彼の人生を慮ったのか。彼の前途を断ち切るのが忍びなかったというのか。
だが、残された今の彼を見れば、もし配慮というものがあったのならば全て裏目に出ているのでは
ないか、そんな気がする。
なぜ、彼を残して逝ってしまう事ができたんだ。
彼の思慕を断ち切りもせず、彼の心を掴んだまま。


(35)
彼はあなたを恨まないかもしれない。
いえ、恨めないでしょう。けれど僕はあなたを恨めしく思います。
いっそ連れて行ってしまえばよかったんだ。
こんな抜け殻のような彼だけをこの世に残していくくらいならば。
あの日、最後にあなたと言葉を交わした時、僕はあなたの決意をわかったつもりでいた。
けれどこんな結末が待っているなんて思いもしなかった。
なぜ僕はあの時、何も言えなかったのだろう。
それとも。
それともあの時既に、僕の心には闇が巣食い始めていたのだろうか。
全てを悟り、覚悟したようなあなたの笑顔が美しくて、悲しくて、それなのに、そうして流した涙の
中に、ほんの微かでも毒が混じっていはしなかったかと、僕は恐れる。

あなたは知っていましたか。
あなたが慈しみ、あなたを恋い慕うこの少年を、僕がどれ程慕い、恋焦がれていたか。
あなたを羨ましいと、妬ましいと、彼の思慕を一身に受けるあなたに成り代わりたいと、そんな
大それた望みを、僕が捨てきれなかった事を。
それとも。
「良いお友達でいてくださいね。」
そう言ったあなたは、僕の恋情など気付いてもいなかったのでしょうか。
気付いた上で、彼のその後を僕に託してくれたのでは、などと思うのは、きっと僕の思い上がり
なのでしょう。
けれど僕はあなたの言葉をよすがに、彼の手を引きたいと思うのです。
それは、ある意味、あなたの言葉を盾に彼を脅す事になるのかもしれません。
あなたを利用する事になるのかもしれません。
けれど、利用できるものなら何でも、彼をこちらに引き戻す為に使えるものなら何でも、例えそれ
がどんなに下らない戯言であっても、彼を脅し、宥め、あらゆる手を嵩じてでも、彼を取り戻したい
のです。



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