失着点・展界編 31 - 35
(31)
伊角はヒカルの母親と共にヒカルの部屋の前まで早々と上げられていた。
コンコンと遠慮がちにドアがノックされ、伊角の声がした。
「…進藤、…オレだけど…。」
「伊角さん!?」
ヒカルは直ぐにドアを開けた。伊角はヒカルの顔を見て、思ったより元気
そうな様子に心の底からホッとしたような表情をした。
「すぐ飲み物お持ちしますから。」
ヒカルの母親はニコニコしながら階下へ降りて行った。その様子に、伊角は
昨日あの状態で別れた後のヒカルがどうなって今に至るのかまるで見当が
つかないようだった。
「…進藤…お前、…体の具合は…」
「あ、う、うん、まあ…何とかね。」
少し沈黙の間があった。ヒカルの母親がすぐに紅茶を入れて運んで来た。
「ヒカル、あなたお腹こわしているから温かいものにしたわよ。伊角さんも
ゆうべ緒方先生のところの検討会に参加していらしたの?」
伊角がびっくりして一瞬口を開きかけ、ヒカルを見た。ヒカルも焦った。
「う、うん!伊角さんはちょこっと顔出しただけ。ねっ。」
「…そっ、そうなんです。」
「プロの世界って本当にいまだによく分からなくて…。塔矢先生のところの
息子さんや、伊角さんのようにしっかりしていればいいのでしょうけれど、
うちのヒカルはまだまだ子供で、何か落ち着きがなくって…。いろいろ
御迷惑かけるかもしれませんがよろしくお願いしますね。」
「プロの世界は進藤君の方が先輩です。こちらこそ宜しくお願いします。」
「和谷みたいな奴だっているじゃん。いいから母さんは早く出て行ってよ。」
(32)
伊角はハッとしたようにヒカルを見た。そしてヒカルの母親が部屋を出て
階下へ降りきった頃合を見て、口を開いた。
「…ありがとう、進藤…。」
ヒカルの口から自然に和谷の名前が出た事が嬉しかったようだった。
「…和谷の様子は…?」
今となってはそちらの方がヒカルには気掛かりだった。
「あいつ、今日病院行ったよ。オレが付き添った。手の骨、2ケ所にヒビが
いってたって。…本当に、バカだよ、あいつ…。」
それを聞いてヒカルも目を閉じた。和谷の部屋の穴の開いた物入れの戸。
アキラとの事さえ守れればいいと思って後先考えずに自分がした事が
どんなに和谷を苦しめたか、今一度思い知らされた。
「…それで、進藤、実は和谷から伝言を預かって来たんだけど…。」
「あ、うん、…何だって?」
ヒカルは息を飲んだ。内容によっては、自分も囲碁を続ける事は出来ない。
「あいつ、ちゃんと囲碁やるって。戻って来るってさ。」
ヒカルは安堵の息をついた。それが一番聞きたかった。
「それで…実は…」
伊角の表情は固いままだった。ヒカルは不安げに伊角の言葉を待った。
「今度の大手合いが終わるまで、…その…、塔矢アキラと二人で会わない
ようにしてもらえるかな…。」
「え…?」
「今度の手合い、和谷の相手は塔矢なんだ…。」
(33)
和谷は、アパートの自分の部屋で碁盤に向かい、棋譜並べを繰り返していた。
真新しい包帯の巻かれた右手で石を持ち、置く。
力が入れにくい指先から碁石が落ち、畳の上を転がった。
それを拾おうとして、わずかに残った黒い染みの跡に目がいく。
「…進藤…。」
最初に浮かんだのは、度胸付けのためにプロ試験の前に伊角と3人で
碁会所を巡って打ちまくっていた時の事だった。歳の離れた相手とあまり
対戦したことがないというヒカルの為に。
弟みたいでかわいかった。慣れない院生達の中で、一人でも平気かと思えば、
何かあると仔犬みたいにくっついてきて不安そうに聞いて来る。
一緒にプロ試験に受かった時は、本当に嬉しかった。
「…いつから…かな…。」
ヒカルが手合いに来なくなって、それでもあまり心配はしなかった。
本当に何かあったら自分の処に相談にくるはずだ。少し気持ち的に躓いている
だけだ。それでも森下先生に言われて、ヒカルに会いに行った。
公園の中で、久々に会ったヒカルは、別人に見えた。
痩せて、儚げなうつろな目をしていた。しばらくは声を掛けられずにヒカルを
見ていた。ふわりと漂うように立っているヒカルを捕まえたかった。
願望はその時に生まれ、あのパーティーの後のこの部屋で達成された。
あの日と、手合いの日。ヒカルを捕らえ、心の奥底の願望のままにヒカルを
串刺しにした。ヒカルもそれを了承したのだ。合意の上でのSEXだ。だが。
自分はヒカルに苦痛しか与えていない。自分の下で、切なく身を捩らせて
甘い声で喘ぐヒカルを見てみたい。許されない事と分かっていても。
「…もう一度、…もう一度だけ…、…進藤…。」
(34)
伊角の言葉に、ヒカルはすぐに返事をする事が出来なかった。
「…勝手な言い分だと思うだろうけど…。」
伝言を伝えるだけの役目の伊角が、申し訳無さそうにヒカルを見つめる。
アキラが帰国してくるのはいつだっけ、とヒカルは考えた。アキラの事だ。
帰って来たその日の夜、アパートの部屋で待ち続けるだろう。当然ヒカルが
やって来ると信じて疑わずに。…自分だって、会いたい。今すぐ会いたい。
「…ごめん、それは…」
俯いてヒカルが小さな声でそう言いかけた時だった。
「和谷の両親、離婚するかもしれないんだ。」
唐突に切り出され、ヒカルは驚いて伊角を見た。
「えっ…?」
「元々あまり仲が良くなくて、和谷がプロになった事で母親が決意した
らしいんだ。父親が他の女の人のとこ行ってるとかで…。それが原因で、
和谷が小さい時から相当ひどい夫婦喧嘩が何度もあったって聞いた。」
どう反応したら良いのか分からずヒカルは黙って聞いていた。
「あいつ、今すごく精神状態が不安定なんだよ。強気に見えるけど、本当は
すがりつくものが欲しいんだ。あいつって年上の人に人懐っこいだろ。」
ヒカルはコクンと頷いた。
「塔矢アキラを目の仇にしていたのは、うらやましかったんだと思う。
存在感のある父親がいて、大切にされてて…。囲碁の才能も…。そして…」
伊角はヒカルをジッと見つめた。ヒカルはドキリとした。
「…和谷が本当に欲しいと思うものを全て塔矢アキラは持っている…。」
(35)
和谷が乗り移ったような伊角の視線に気押されるように、ヒカルは後ずさって
ベッドにもたれかかり、天井を見上げた。目を閉じ、フーッとため息をつく。
「…わかったよ…。約束する…。しばらく塔矢とは会わない。」
その言葉を聞いて伊角はホッとした表情になった。ふと伊角は、ヒカルの細い
首元に目を止めて顔を赤らめた。和谷の残した歯形を見つけたからだった。
「…そう言えば、進藤、お前ゆうべは緒方先生ンとこに泊まったのか?」
「え、あ、ああ。」
「…まさか進藤、緒方先生とも…!?」
「バッ…!違うよ!たまたまオレがフラフラしてた時先生が通りかかって…」
伊角が更に真っ赤になって頭を下げた。
「ス、スマン…。オレもなんか昨日から頭が混乱しているんだ…。長居をして
すまなかった。帰るよ。」
緒方と聞いて、ヒカルもある事を思いだした。
「…伊角さん、あ、あの、…ハンカチ、買って返すから…。」
伊角はキッとヒカルを見据えた。
「買わなくていい。返さなくていいんだ。忘れろ。少しでも早く…。」
伊角の気遣いが嬉しくてヒカルは笑んで頷いた。伊角はヒカルを見つめる。
「それから、進藤、…お前、もっと太れ。」
「…はあっ?」
「そんな細っこい体つきしているから、…その、和谷だって気迷いするんだ。
もっと食って体鍛えて、ごつくなれ。そうすれば和谷だって気が付く。」
「気が付くって…何に?」
「…お前ももっと自覚しろよ!!…じゃあな!!」
きょとんとしているヒカルを残して伊角は帰って行った。
「…伊角さん、最後何をあんなに怒っていたんだろ…。」
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