とびら 第一章 31 - 35
(31)
秀策――本因坊秀策。棋聖と謳われる最強棋士である。
あまりにも途方もない名に誰もが唖然とした。そしてどこからともなく笑いが起こった。
碁会所に笑いが渦を巻く中で、アキラはただヒカルを見つめた。ヒカルが本気だとわかった。
わかったからこそ恐ろしさとともに、愛しさのようなものがこみあげてきた。
「しんど……」
呼びかけようとした声は別の声によって掻き消された。
「はっ。生意気な小僧だ。思い上がりもはなはだしい。本因坊秀策だと?
これはまた大きく出たもんだ。目標だと言うのも恥ずかしい。自分の力がわかってるのか。
その名を口にしていいのは若先生くらいだ。低段者は低段者らしくしたらどうだ」
「何だとっ!」
ヒカルが北島につかみかかろうとした。だが伸びた手は引き戻された。
誰かがヒカルの後ろに立っていた。ヒカルは振り返り、その人物に声をあげた。
「和谷! 放せよ!」
「放して、おまえどうする気だ。落ち着けよ」
「何でここにいるんだよ。外で待ってろって言っただろっ」
「おまえがなかなか来ないから来たんだよ。そしたら案の定さわいでるじゃないか」
ヒカルはまだもがき、鼻息を荒くしている。
「こいつら人のことばかにしたんだぜ! 塔矢、塔矢って!」
「ここは塔矢のシマなんだから、おまえなんて眼中にないに決まってるじゃないか」
アキラはかたまったまま動けなかった。見えない何かに縛り付けられているようだ。
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和谷はヒカルの頭を押さえた。
「ほら、あやまれ」
「なんでだよ! あっちが先に……」
「いいから!」
唇をかみしめると、ヒカルは頭を下げた。
「すみませんでした」
和谷はよし、と手を放すと、今度は北島に向き直った。
「こいつの態度や言葉遣いはたしかに悪かったと思います。でもおじさんたちのこいつに
対する態度も良くないと思います。おじさんの発言はこいつだけじゃない、俺をも
見下した言葉です。塔矢以外の棋士はどうしようもないと言ってるのと同じことですから」
「いや、そんなつもりは……」
北島はうろたえた。和谷の目がアキラに向いた。
「おまえ、黙ってたってことは、おまえ自身もそう思っているからか」
「違う!」
「ならなぜ大人たちをとめない」
アキラは絶句した。そのとおりだ。自分がとめるべきだった。
「……まあいいや。じゃあな、若センセイ」
ヒカルの腕をつかみ、和谷は出ていこうとした。
「あ、ちょっと待って、和谷」
リュックの中をさぐり封筒を取り出した。
「これ天野さんが入れ忘れた書類だって。みんな忙しいみたいで困ってたから俺が来たんだ」
テーブルの上に置くとヒカルは背を向けた。
「お腹空いた〜」
「じゃあ鯛焼きおごってやるよ」
「ホント? あったかいお茶もつけてくれよ」
「おまえなあ」
ガアッと自動ドアが閉まり、それ以上話し声は聞こえなかった。
アキラは立ち尽くし、二人の姿を消したドアを凝視した。
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気まずい雰囲気が碁会所に流れる。誰もの表情に大人気ないことをしてしまったと出ていた。
「……まあ、たしかに良くなかったよな」
「ああ、あんなに大笑いすることはなかったし、言い過ぎたよな」
北島も反省しているようで、具合が悪そうにしている。だがやがてぼそりと言った。
「けどさ、仕方ないじゃないか。俺たちにとって若先生が一番なのはたしかなんだから。
それなのに、あの子が自分は対等のように言うから、つい腹が立ってしまって……」
「北島さん」
市河がやんわりと話に割り込んできた。
「わたし、進藤くんってすごいと思うわ。北島さんのように自分を良く思っていない人が
たくさんいる中で、いつも変わらずにアキラ君と碁を打っていたでしょ。
普通だったらこうはできないわ。萎縮しちゃうじゃない。しかも相手はリーグ入りしている。
でも進藤くんは自分の考えまで言って……ふふ」
思い出したように笑う。
「いつも大人びているアキラ君をあんなに年相応にしてしまうんだもの。
アキラくんが子供っぽくケンカをするの、わたし初めて見たわ。
進藤くんは何もかもを飛び越えて、ここに来ていたのよ」
アキラはその台詞に衝撃を受けた。
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今まで気付かなかった。誰も自分と同じ場所にいるとは思わなかった。
だがヒカルはいつも何でもないように自分と向かい合っていた。
別にそれは本当にヒカルにとっては何でもないことだったのかもしれない。
ヒカルのことだから何も感じていなかったというのも考えられる。
それでも自分の前にいてくれたことに変わりはない。
ヒカルだけが自分のところに来てくれていたのだ。たとえそれが碁をとおしてだけでも。
同級生たちの姿が思い出された。
誰も彼も当たり障りなく接してきた。自分も同じように接した。
空虚な関係。
そんなものばかりを築いてきたアキラにとって、ヒカルは初めてありのままの“自分”で
接することのできた人だった。
いや、“ありのままの自分”をヒカルが引き出してくれたのだ。
それなのに自分は先程の言い合いに口も出せずにいた。怒りが腹の底からあふれでてきた。
アキラはテーブルをこぶしで思い切り叩いた。痛みを感じたがそれ以上に苦しかった。
「どうして……どうして彼の力を侮ることができるのです……っ」
低くしぼりだされたような声だった。
「ボクは彼と打った。そして彼こそがボクの生涯のライバルだと確信した。他ならぬボク自身が!
なのに彼の実力をはかることもできないあなた方が、何を根拠に彼をおとしめるのです!」
もの静かで、いつも穏やかなアキラの叫びにも似た言葉に誰もが仰天した。
アキラは取り乱したことに気付き、口を押さえた。すみません、とつぶやく。
取りつくろうように笑おうとしたがうまくできなかった。視線がさまよう。
またドアへと目が行った。もうそこにヒカルはいない。手が震える。
「アキラ先生……」
広瀬が心配そうに声をかける。だがそれさえもがうっとうしく感じられた。
「……追って来い、なんて言ったけど、追っているのはボクのほうです……。
ボクは彼がいなくてはならないけど、彼にとってボクは……」
ヒカルがずっと手合いに来なかったことがある。そのときアキラはヒカルの学校に行った。
久しぶりに見たヒカルは何かひどく落ち込んでいる風だった。
そのときのヒカルの中に、自分はいなかった。自分の声は届かなかった。
あの時も自分はヒカルを追いかけた。去っていこうとする彼を追いかけたのだ。
アキラは勝ち続けた。ヒカルをもう一度プロの世界に引き戻すために。
自分ならできると、そして自分しかできないと思った。
誰と打っても、どんな局面でも――それがリーグ入りをかけた戦いでも──自分はずっと
ヒカルのことを考えていた。
「そう……ボクはずっと彼のことを考えていたんだ……」
ヒカルに出会ってから、ずっと。
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ヒカルのことなど忘れて、目もくれずに前へ進もうとしたこともある。
しかしそう考えていたあいだ中、じつはそうやってヒカルのことをずっと想っていたのだ。
そしてそれは今も変わらない。ヒカルが勝てば嬉しくてほっとするし、心の中で激励する。
いったいこれは、この想いは何なのだろう。
市河が息詰まりそうな雰囲気をとりなすように言った。
「なんだかアキラくんが片思いしているみたいな言葉ね」
ぱちん、と頭の中で音がした。すべての符合が合わさった気がした。
なぜ、キスをしているのを見て、あれほど苛立ったのか。和谷ではなく、ヒカルに。
それはおのれの唇に触れることを、ヒカル自身が和谷に許していたからだ。
自分はヒカルだけだ。だがヒカルにとってはそうではない。
絶望感が襲った。
「……進藤!」
たまらなくなってアキラは飛び出した。外に出たがもちろんヒカルの姿はなかった。
街には明るいメロディが溢れていた。そうだ、今日はクリスマス・イブだ。
こんな日に和谷とヒカルは会っている。何をしているのかを想像して、心臓をわしづかみに
されたような痛みが走った。息がうまくできない。
(嫌だ。自分以外の誰も彼に触れてほしくない……!)
すれ違ったときに少し触れるだけでも嫌だった。
ヒカルの肌に髪に唇に、すべてに触れるのは自分だけでありたい。
それはアキラが初めて抱いた独占欲だった。
「ボクは、進藤……きみが好きなんだ……誰よりも好きなんだ……」
嗚咽とともに涙が頬を流れた。
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