とびら 第三章 31 - 35


(31)
石を打つ音が聞こえる。
ヒカルはゆっくりとまぶたを開いた。部屋に柔らかな光が満ちている。
碁盤の前に誰かが座っていた。その横顔を見て、ヒカルは息をのんだ。
佐為だ。佐為がそこにいる。
長くてすっきりとした指が碁石をはさむ。そして迷うことなく石を盤上に放つ。
ヒカルは頬を緩めた。
(こんな朝っぱらから、本当に碁が好きだよなあ)
自分が起きているのに気付いたら、すぐに一局打とうと騒ぎ出すのに決まっているので、
ヒカルは寝ているふりをし続けた。
(佐為……)
たまらない幸せを感じる。身体がくすぐったい。
打つ音が止まった。佐為は真剣な目で盤面を見つめている。
そのまなざしをヒカルは知っている。ずっと見てきたのだから。
そして自分に向かって優しく細められるのも知っている。
「さ……い……」
あまりにも小さな声で、聞こえないのではと思ったが、佐為は振り向いた。
立ち上がり、近付いてくる。
ひんやりとした手が額に触れた。やはり幽霊だから冷たいのだとヒカルは思った。
嬉しくて涙が出そうになる。
(そうだ、オレ、ずっとこうしておまえに触れてほしかったんだ。そんで……)
ヒカルはその首に腕をまわし、引き寄せた。
(こうやって触れたかったんだ)
いい匂いがする。ヒカルはうっとりと目を閉じた。願いがすべてかなえられた。
だが不意に咲いた花が散っていくような感覚に襲われた。
違う、これは違う、と頭の中で声がする。
(違う……オレは佐為に触れることはできない。できないんだ……じゃあ、これは……)
――――夢だ。
目を開くと、自分はアキラを抱きしめていた。


(32)
相変わらず部屋は明るいのだが、先ほどまであったような不思議な空気は消えていた。
ヒカルは腕をほどいた。どうしていいかわからない。
「塔矢、オレ……」
アキラは微笑んだ。それがなんだか胸に痛い。
「なに?」
「オレ、ちょっと寝ぼけてて……変なことを言わなかったか?」
「よく聞こえなかったけど、きみが呼んだのはわかったよ」
ヒカルは唇を引き結んだ。自分が呼んだのはアキラではない。
「具合はどう?」
「ふつう。今何時?」
ベッドに横たわると、枕元に濡れた布が落ちているのに気付いた。それを額にのせる。
気持ちがよかった。頭が少し重たい気がするのは熱があるせいなのだろう。
頬にはりつく髪を払ったとき、手が耳にはられたガーゼに触れた。
そう言えば和谷にかまれたのだっけと思い出す。ここも手当てしてくれたのか。
「もうすぐお昼だよ。今日は手合いがなくて良かったね」
「お母さん、怒ってた?」
「ものすごくね。でも今はいないよ。町内会があるとかで、出掛けていったから」
ヒカルは部屋のすみに本が数冊置かれているのに気付いた。
「それ……」
「ああ、ちょっと早く起きちゃったからきみの本棚から勝手に借りて読んでたんだ。
また増えたね、秀策の本」
アキラは表紙を見つめ、それから棚に戻していく。
「最初きみと打ったとき、秀策を思い出した」
それはそうだ。打ったのは他ならぬ秀策自身なのだから。
「きみは秀策を尊敬しているのか?」
「うん」
誰よりも、他のどんな棋士よりも、ずっと尊敬している。
「秀策の幼名は虎次郎って言うんだね」
本をめくり、アキラは言う。ヒカルは鼻のあたりにしわを寄せた。
あまり虎次郎のことは好きではない。
幼いながらも佐為の才能を見破るほどの棋力を持ち、死ぬまで佐為とともにあった虎次郎。
うらやましいかぎりだ。おまけに佐為も虎次郎を特別視していた。
その名が佐為の口から出るだけで、自分が比べられているような気がして嫌だった。


(33)
佐為のことが大好きだ。だが自分が虎次郎に勝っているという自信はない。
もし自分が虎次郎と同じ時代に生まれて、佐為が二人の身体のどちらでも乗り移ることが
できるなんてことになったら、自分はどうしようもなく嫉妬してしまうだろう。
佐為は自分だけの佐為でいてほしい。他の誰かにとりつく佐為など見たくない――――
そこでヒカルは思わずアキラを見た。
自分が和谷に抱かれるのは嫌だとアキラは言った。
和谷も同じようにアキラに自分が抱かれるのは嫌だと言った。
二人の心情を今までヒカルはいまいちつかみきれていなかった。
だが佐為に抱いたような独占欲を二人が自分にも抱いているとしたら。
(オレ、この二人にすごくひどいことをしてるのかもしれない)
自分だって好きな人が違う人に身体を開いていたらものすごく嫌だ。
なぜ今まで気付かなかったのだろう。自分は本当にばかだ。
「塔矢、ごめん」
アキラの目が大きく開かれた。だが続いて険しく細められた。
「なにが?」
「とにかく、ごめん」
近寄ってくると、アキラはヒカルの顔をのぞきこんできた。
「意味もなく、謝られるのは嫌だ。きみは前もそんなふうに謝って、僕から逃げたね」
そう、あれは佐為がいなくなってふさいでいたときのことだ。
アキラが中学校にやって来て、なぜ手合いに出てこないのかと言ったのだ。
あの時もヒカルはアキラに謝った。佐為はいなくなってしまったのだと、もうおまえとは
打たせてやれないのだと、そんな気持ちを込めて、謝ったのだ。
「進藤、なにを謝るんだ。ちゃんと言え」
言ってくれなければ分からない、とヒカルは和谷に対して思った。
ならばアキラにも自分は言わなくてはいけない。
「……オレ、おまえたちのことなんて、ちっとも考えてなかった。どんな気持ちでオレに
接しているかなんて、少しも気遣ったことなんてないんだ。だから、謝ったんだ」
「おまえたちとは、僕と和谷のことか」
ヒカルはうなずいた。アキラはほんの少し表情をやわらげた。
「少しも考えていなかったのか?」
「ああ」
「でも今は考えているんだろう? それなら、聞いてもいいか」
目の前のアキラの目をヒカルは見つめた。自分が映っている。
「きみはどっちを選んでくれる?」


(34)
アキラのこの言葉は成り行きとしては至極当然なものだ。
だがヒカルはうろたえた。そう簡単に選べるものではない。
第一、この二人から選ばなければならないのか。
こういうふうに言うのが佐為だったら、迷わず「おまえだよ」と言えるのに。
(……ようするに塔矢のこの言葉は、オレが佐為に、オレと虎次郎のどっちを選ぶんだ、
って言うのと同じようなものか)
佐為だって困るだろう。今の自分も同じだ。
そう、困っている、というのが一番ヒカルの心理状態にふさわしかった。
答えられずにいるヒカルを見て、アキラは仕方ないというように笑い、息を吐いた。
「焦らないでいいよ。いつか答えを出してくれればいい。でもその時は……」

――――僕を選んでほしい。

そんなふうに聞こえた気がした。
うなずくことなどできないので、ヒカルはかたまったままアキラを見つめた。
「あと一つ聞きたい。なんできみは僕と和谷を選んだんだ?」
「そんなのわかんねえよ」
「棋力ではないんだろう? それなら僕が勝っている」
しゃあしゃあとアキラは言う。
「仲の良さか? でもそしたら僕は除外されるな。何か理由があるはずだ」
アキラはヒカルから答えを誘導するように言葉を続ける。
「僕と和谷に、なにか共通点でもあるのか?」
そう言われ、少し考えてみる。しかし境遇も性格も容姿も二人はまるきり違う。
共通点など見当たらない。ヒカルは首を振った。アキラはまた一つ息を吐いた。
「こっちもいつか答えを出してほしい」
まるで宿題を出されている気分だ。ヒカルは真面目に宿題に取り組んだことなどないのに。
話をそらすように、ヒカルは碁盤を指差した。
「さっき、なんか打ってたよな」
「ああ。きみとの一局を並べたんだ」
そう言いながらアキラは碁盤をヒカルが見えるところまで持ってきた。
「碁打ちとして、碁を取り引きにするのは卑怯だと思ってたし、きみを元気づける方法は
これしか思い浮かばなかった」
身を乗り出してヒカルは盤面をのぞきこんだ。227手で終局、黒の2目勝ち。
ヒカルはそこに佐為を見た。


(35)
すべてが腑に落ちた気がした。
アキラの言う、共通点。二人とも佐為がいたという、証を持っているのだ。
それは佐為と打ったということだけではない。それなら他にも人はいっぱいいる。
碁会所の男、塔矢名人や緒方十段、門脇、インターネットの男たち……。
だが和谷とアキラはそれらの人たちとは違っていた。
この二人は佐為と自分を関連付け、それでもなお自分を認めてくれたのだ。
和谷との最初の一局のあと、言われた。いつかsaiのように強くなるかもな、と。
またプロ試験のときも、今日の一局はsai並みだった、と。
そしてアキラはずっと佐為を追いかけ続け、一つの結論を出した。
saiは自分だと。それでも自分の打つ碁が自分のすべてだ、と。
和谷はヒカルに佐為のように強くなるという“未来”を、アキラは佐為が自分だという
“過去”を言ってくれたのだ。二人はいわば対のようなものだった。
アキラに抱かれるとき自分は恐れを抱いた。
それはアキラのなかに和谷より濃く残っている佐為に触れることが、そしてそこに佐為が
存在したという証に気付いて、自分がそれにすがりついてしまうことが怖かったのだ。
だからふたをした。そして快感だけを追うことにしたのだ。
アキラとの時、目をつぶって誰に抱かれているか分からない感覚を味わうのが好きだった。
自分は佐為を感じていたのだ。別に佐為とセックスをしたかったわけではない。
ただ触れて、その存在を感じたかったのだ。
(オレってこんなに佐為のことばかりなヤツだったっけ……)
そして、二人に対してこんな裏切りはないと思った。アキラの言葉が思い浮かぶ。

――――なんできみは僕と和谷を選んだんだ?

二人に抱かれることによって別の人のことを感じていたんです、なんて言えるわけがない。
「進藤? どうしたんだ、顔色が悪い」
ヒカルは悲しくなった。自分が求めているのは佐為なのだ。佐為に触れたい。
こんな余計なこと、気付かなければよかった。
気付かないまま、二人に抱かれていれば楽だったのに。
二人が自分を好きだとか言い出すからこんなことになるのだ。
気付いてしまったら、もう戻ることはできない。
佐為が存在したと、自分以外からその証を感じたいという渇望が生まれる。
我知らずヒカルはアキラに唇を押し付けていた。乞うような熱心さでその唇を吸う。
戸惑ったようだったアキラも、背中に手をまわして応えてきた。
ヒカルは目を閉じ、まぶたの裏に浮かぶ人影を想った。



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