とびら 第四章 31 - 35
(31)
ヒカルが何を言っても冷静に受け止めようと思った。
逆上して、我を忘れるようなことだけはぜったいにするまい。
和谷はヒカルの手に自分の手を重ねた。
「和谷はオレを好きなんだよな?」
確認するようにヒカルは言う。和谷はうなずいた。
だがそれだけでは足りないように思えて、「好きだ」と声に出した。
「だからオレが塔矢に抱かれるのは嫌なんだよな?」
「いやだ」
「でもオレ、一人を選ぶことができないんだ」
何を言いたいのかよくわからない。ヒカルはさらに言葉を付けくわえる。
「オレには、塔矢も和谷も、どっちも必要なんだ」
「どっちも必要……」
ヒカルの言葉をおうむ返しした。するとそれが身体の奥底へと沈んでいく。
つまり、ヒカルが言いたいのは――――
「今までどおり、ってことか?」
「まあ、そういうことになるかな」
あっさりとヒカルは肯定した。和谷は両手で顔を覆った。信じられない。
こんなことになるとは思わなかった。果たして事態は好転したのだろうか。
それすらもわからない。
「やっぱり傷ついた? 嫌か?」
「傷つくよりも先に呆れたよ! おまえよく言えるな、そんなこと!」
「うん。でもこれがオレの本心だから」
ヒカルはさばさばと言う。何だか少し変わったような気がした。
「和谷にうそをつきたくないから、正直に言ったんだ」
ヒカルは簡単に自分の心をつかまえることを言う。自覚していないから腹立たしい。
和谷は押し流されそうになるのを必死でこらえた。
「俺は、そんなの嫌だ。おまえを塔矢と共有するなんて絶対に嫌だからな」
こんなことを言える立場ではない。だが自分だってヒカルに偽りたくなかった。
だから和谷は気持ちを吐き出した。
(32)
ヒカルは驚いたように和谷を見たが、笑いだした。
「何だよ」
「和谷らしいな、って思ってさ。和谷ならそう言うんじゃないかって思ってた」
自分なら、という言葉に引っ掛かりを覚えた。
「塔矢にも同じこと言ったのか?」
ヒカルは隠さずにうなずいた。
「アイツはさ、気にしない、って言ったんだ。けど無理してます、って顔に出てたよ」
棋院で会ったときのアキラを思い出した。どことなく落ち込んでいるふうだった。
和谷に皮肉を言いはしたが、勝ち誇るようなことはしなかった。
なるほど、これが原因だったのか。
たしかにこれではどちらも勝者ではない。
「和谷?」
黙りこくってしまった和谷にヒカルは恐る恐る話しかけてくる。
「やっぱりがまんできない?」
がまんはできる。だがそれよりもヒカルの胸のうちが気になった。
「できない、って言ったら、おまえはどうするんだ。塔矢と切れて俺だけにするのかよ。
それとも俺と切れて塔矢にするのかよ」
ヒカルは頭をかき、うなった。だがすぐに悪びれもせずに言った。
「んーと、どっちのつもりもないよ。それに実は和谷や塔矢がそういうふうに言う場合を
考えてなかった」
まるで自分たちが承諾するのを疑わなかったような発言だ。しかしそれは正しい。
和谷も塔矢も、ヒカルを自分から断ち切ることなどできない。
だが素直に言うことをきくのは癪だった。
だいたい何で二人なのだ。欲張りではないか。
(それに、こいつにはもう唯一無二の存在はいるんだろ。死んじまってるみたいだけど)
そこでもう一つの可能性に思い当たった。
ヒカルはもしかしたら――――
「おまえ、前に唯一無二の存在がいるって言っていたよな。俺たちはその代わりなんじゃ
ないのか? でも一人だと足りないから、だから二人いるんじゃないのか?」
ヒカルの目が大きく見開かれた。核心に触れたのだろうか。
(33)
その通りだという答えが返ってくるのではと和谷は覚悟した。
だがヒカルは「まさか」と簡単に打ち消してしまった。
「代わりなわけないじゃん。第一おまえたちじゃ、あいつの代わりになんてなんねえよ」
望んでいたはずの言葉だったが、かえって気落ちさせられた。
そんな和谷にヒカルは感心したように言う。
「でも和谷って、昔からけっこう勘がいいのな」
「何だよそれ。やっぱり当たってるってことか?」
「外れてるけど、まったく関係ないわけじゃないんだ。さ、この話はこれで終わり」
それ以上ヒカルは深く言わない。そして和谷が尋ねることもさせない。
ヒカルにいいように操られている気がしてきた。だがそれは悪い気分ではない。
和谷はため息をもらした。その息とともに、もろもろの思いが吐き出されていく。
「も、いいや。何でも」
「それって……」
「塔矢のことは辛抱してやるって言ってんだ」
そう言った瞬間、ヒカルの顔が明るく輝いた。自分はこれが見たかったのだと気付く。
「ありがとな、和谷」
しがみついてくるヒカルの頭を和谷は撫でた。
心のなかで、そのうち必ず俺だけが必要だと言わせてみせる、とつぶやいた。
そのためにはまず、アキラに勝たなければならない。
ヒカルの唯一無二の存在を超えるのはそれからだ。
しかし誰かもわからない相手だと、どうすればいいかいまいちピンとこない。
「なあ、俺がおまえの唯一無二のやつに追いつくには、どれくらいかかる?」
腕をはなし、ヒカルはきょとんと和谷を見つめてくる。
「追いつく? 和谷が?」
まるでそんなことは有り得ないというような口振りに、和谷は少し悔しくなった。
「何だよ、百年早いってか?」
「ううん」
ヒカルは笑った。それが本当にあどけなくて、見ていてめまいが起きそうになった。
「千年だよ」
出てきた言葉はその表情に似合わず厳しいものだった。本当にめまいがした。
(34)
あっ、とヒカルは声をあげた。まだ何かあるのかと和谷はみがまえた。
「どうしたんだよ」
「聞いておきたいことがあったんだ。あのさ、和谷はオレとどうなりたいんだ?」
脈絡のないその質問に和谷は戸惑う。
「どうなりたいって?」
「だからさ、どういう関係になりたいか聞いてんだよ。塔矢はオレと恋人同士になりたい
って言ってた。あと唯一無二の存在になりたいとも言ってたな。そんで和谷はどうなのか
なって気になったんだ」
そう問われて、ヒカルとどうなりたいか、具体的に考えたことがないことに気付いた。
(これはこいつになりに、俺たちのことを考えはじめたってことだよな)
何だかそれだけで十分で、もう他にいらない気がした。
もしかしたら自分はそれほど欲深ではないのかもしれない、と思ってみる。
下から自分を覗きこんでくるヒカルを見ていると、いとおしさがわいてくる。
「……なりたいというよりも、したい」
「え? したい? それって……」
「いや違うんだ! その、したいってのは、そういう意味じゃなくて!」
思わずこぼれた言葉に慌てる。これではヤリたいだけの男のようだ。
「恋人とか、そういうふうな枠組みなんていらないんだ。どうなりたいかというよりも、
俺はおまえを大切にしたいんだ。宝物のように扱って、真綿で」
「首を締める?」
大真面目で言うヒカルに軽く笑って首を振る。
「包むようにして、大事にしたいんだ。甘やかして、言うことを何でもきいてやりたい」
そして何よりもヒカルを守りたかった。
「そんなふうに言われると、なんか照れくさいや」
ヒカルがはにかむ。つられて和谷も照れ笑いをした。あたたかさが部屋に満ちる。
どちらからともなくキスをした。
もう二度と触れることができないと思っていたヒカルの唇。幸せで死にそうだ。
唇が離れると、ヒカルはすまなさそうな顔をした。
「オレさ、本当は今日泊まりたいんだけど、明日学校に行かなきゃいけないから……」
ヒカルの言いたいことがわかった。だが和谷はそれほどがっかりしなかった。
実はまだアキラとの一件の後遺症が身体にあったのだ。
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肛門の奥のほうに傷があるらしく、排泄するたびに壮絶な痛みが身を苛んだ。
しかし薬を塗ろうにも届かず、病院に行こうにも恥ずかしくてできない。
痔になったことなどないが、こんな感じなのだろうと想像する。
こんな状態でヒカルを抱くのはかなり辛い。
痛みが気になって、それどころでなくなるのは目に見えている。
まるでアキラに呪いをかけられた気分だ。だがアキラもそう無事ではないだろう。
何と言ってもあの日、アキラは全力で走って行ったのだから。
アキラの身体の痛みを思うと胸がほんの少しだけだが空く。
「じゃあ駅まで送るよ。あっ、と」
和谷は立ち上がり、ヒカルにすみに置いてあった荷物を見せた。
「これ、返そうと思ってたんだ」
少しその表情が変わった。だが何事もなかったようにヒカルは受け取った。
本当に関係が修復されるのはまだ少し時間がかかるようだ。
外に出たヒカルは隣の部屋をちらりと見て、尋ねてきた。
「和谷の隣の人、どうしてる?」
「隣? 引っ越した。警察騒ぎ起こしてさ。なんでも夜中に素っ裸で踊ってたらしいぜ」
陰気な感じの男で、挨拶もあまり交わしたことがなかった。
会うといつもぶしつけに自分を見てきて、はっきり言って不愉快だった。
「裸でおどってた?」
「そう。んでわけわかんないことを叫んでたらしいぜ。狂わされたとかどうとか。冬でも
変なやつは出るんだな。おまえも気をつけろよ」
複雑そうな面持ちでヒカルはうなずく。
「話は変わるけどさ、今日どうして門脇さんと打ったんだ?」
「打ちたかったから」
それでは答えになっていない。だが和谷はさらに問いかけることはしなかった。
悪い意味ではなく、どうでもいいと思ったからだ。
「オレ、門脇さんと打てて良かった。本当に良かった」
すっきりとした顔だ。いったい何を考えているのか見当もつかない。
「……おまえって、ホントにわかんないやつだよな」
「オレも和谷のことわかんないなって思う。和谷だけじゃなく、塔矢も」
和谷は嘆息し、天を仰いだ。星がとてもきれいだった。
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