とびら 第六章 31 - 35


(31)
会場には北斗杯のポスターが一面に貼られていた。
このイベントでの自分たちの仕事は指導碁だが、客はそれよりも誰が代表選手に選ばれるか
に興味があるようで、碁をそっちのけで話しかけてくる。
「自分、北斗杯の代表に選ばれる自信ある?」
ぶしつけな言葉に和谷は腹をたてたが、それをこらえて「精一杯がんばります」と答えた。
「選ばれたとしても塔矢アキラほどの実力があるかが問題やで。一勝二敗やったら、負けや
ねんから。日本が全敗しよったら、恥ずかしくてたまらんわ」
「けど相手は韓国に中国や。それもしゃあないかもしれへんなぁ」
すでに負けるような口振りに和谷はますます苛立った。思わず大きな音を立てて石を打った。
客もさすがに和谷の機嫌を損じたことに気付いたようだ。
だが謝るどころか、かえって面白そうに言ってきた。
「なんや怒っとんのかいな。短気は損気やで。気は牛のよだれのように、長う持たないかん」
「牛のよだれは商いやろ」
「せやったっけ」
そう言うとみなで笑いだした。和谷は唇を引き結んだ。
なんでこんなふうに言われなくてはいけないのだ。うんざりだ。
わっ、と歓声と拍手が他の席からあがった。みな何だろうと注目する。
一人の客がそこから和谷たちのところにやって来た。
「どないしたん?」
「いや、あの進藤ちゅう子がな、えらい意気込みでな、北斗杯で自分は絶対に負けへん、て
言いよってん。びっくりしてしもうたわ」
「けどその子、まだ選ばれてもないんやろ?」
「そう言うたら、絶対選ばれる、言うてん」
「気概がある子やな。兄ちゃんも見習わなあかんで」
和谷はうつむいて碁盤を見つめた。感情が噴き出してくる。
見習う? いったい何を見習うというのだ? 自分も同じように言えというのか?
ヒカルは韓国や中国がどんなに強いかを知らないから、ああ言えるのだ。
それにそんなふうに豪語して、選ばれなかったときはいい笑いものではないか。
(……俺は今でもじゅうぶん笑いものにされてるじゃねえか)
和谷は自嘲し、さらに暗澹とした気持ちになった。


(32)
日が暮れはじめ、客たちがちらほらと帰りはじめた。
ぜひとも北斗杯を見に来てほしいというアナウンスが会場に流れる。
関西棋院も協力しているが、開催されるのは東京である。だから少しでも関西の客に北斗杯
に興味を抱かせるために今回のイベントが企画されたのだろう。
しかし和谷は来たくなかったと思いながら碁石を片付けた。
(そうだ、俺は来たくなかった。せっかく進藤との仕事だけど塔矢がいるし、何よりも……)
指先が冷たくなっていく気がした。
和谷は人だかりのできているほうを見た。アキラがその中心にいた。
誰もかれも塔矢アキラにばかり注目し、アキラもそれを当然のことのように受け止めている。
(あいつなんか、北斗杯で叩きのめされればいいんだ)
不意に肩をたたかれ、和谷は慌てて後ろを振り返った。ヒカルが立っていた。
「和谷、夕飯どうする? ホテルで食う?」
「せっかく神戸に来たんだから、外に食いにいかないか」
「そうだな。じゃあ塔矢を呼んでくる。いいよな?」
なんでアキラを呼ぶのだ。そう言いたかったが和谷の返事を待つことなく、ヒカルはアキラ
のもとへと駆け寄っていく。
新幹線のときもそうだ。和谷が嫌だと思うのをわかっているのに、ヒカルはアキラを誘った。
無神経にも程がある。
輪の中にいたアキラは驚いた顔をして、つづいて嬉しそうにうなずいた。
三人で会場を出ようとすると、今日のイベントの主催者の男が声をかけてきた。
「塔矢くん、一緒に夕御飯でもどうかね」
明らかに自分とヒカルは含まれていない。だが和谷は喜んだ。アキラなどいないほうがいい。
和谷はアキラが申し出を受けると思った。自分だったら主催者に誘われたら断われない……。
「すみませんが、彼らと食べにいきますので」
あっさりとアキラは言った。断わられるとは思っていなかったのだろう、男は虚をつかれた
顔をした。そうか、と口をまごつかせながら立ち去って行った。こうなると気に入らないの
を通り越して、心底アキラが憎くなってくる。いやもうとっくにそうなっているのだが。
ヒカルがアキラを捨てて自分を選んだとしても、この気持ちは絶対に変わらないだろう。


(33)
どこで食べるかは決めてはいなかったが、とりあえず三ノ宮に行った。
センター街に入ったとたん、ヒカルが看板を指差した。
「たこ焼き! オレたこ焼きが食いたい!」
「それじゃあお腹はいっぱいにならないんじゃないか?」
アキラはそう言うが、和谷はヒカルを引き寄せた。
「いいぜ、食おう。いやだったらおまえは違う店に入れば?」
むっとした顔をしたが、アキラも後に続いた。
店に入って三人はたじろいだ。なぜなら客が自分で焼いているようだったからだ。
うろたえたまま店員にうながされ、席に着く。ヒカルが小声で尋ねてきた。
「和谷、焼いたことある? たこ焼き……」
「あるわけねえだろ」
「ご注文は」
慌ててメニューを見る。ヒカルは餅入りを、アキラは普通のを頼み、和谷はチーズが入って
いるものにした。すぐにタネが目の前に置かれた。
見よう見まねで流し込み、タコと具を穴に落としこんでいく。
「うまく引っくり返せない」
タコピンでつつきながらヒカルが言う。
「真ん中のほうなら引っくり返せるよ。ほら」
アキラがくるりと引っくり返すと、ヒカルは手を打ってはしゃいだ。
やはりヒカルと二人で来たかった。アキラがいると気持ちがすさんでくる。
だいたい焼けると、店員が出し汁を持ってきた。明石焼きなのだと今頃になって気付く。
「みんなの交換しようぜ。いいよな?」
ヒカルが三人のたこ焼きをトレードしていく。はっきり言ってアキラの焼いたものなど食べ
たくなかった。だがそんな子供みたいなことを言ってもしかたがない。
少し不恰好なたこ焼きをヒカルは美味しそうに食べている。
それを見ているだけでじゅうぶんな気になる。ふとアキラの表情を見た。穏やかな顔だった。
自分にはヒカルしかいないのだと、そう切羽詰って言ってきたときのことを思い出す。
そんなアキラにわずかに同情した自分が忌々しい。
あのころヒカルは自分だけのもので、アキラが同じ位置に立つとは思いもしなかった。


(34)
店を出るとぶらぶらしながらセンター街を抜けた。
「なあ元町中華街があるって店のおっちゃんが言ってたんだ。そこに行かねえ?」
「そうだな。寿司屋でもいいかなって思ってたけど、中華もいいよな」
和谷がそう言うとヒカルは軽く笑った。
「どうしたんだよ」
「いや、前に伊角さんと三人で寿司食べたじゃん? あんとき、和谷といっしょにたくさん
食べて伊角さんを怒らせたのを思い出したらおかしくなってさ」
「今度は肉まんにして、もう一度大食い対決するか?」
「和谷がお金を出してくれるならいいぜ」
「コノヤロ」
ヒカルとふざけながら歩く。アキラは一歩下がって二人の後ろを歩いている。
そうだ。アキラはヒカルとこんなふうに話せない。
何をびくびくする必要がある。碁はアキラに及ばなくても、それをのぞけば自分はアキラを
凌駕しているはずだ。セックスだって負けていない―――はずだ。
「へえ、横浜の中華街に比べると小さい感じだな。早く行こうぜ」
ヒカルが和谷の腕を引っ張りながら門をくぐる。それだけのことで安堵する自分がいる。
求められているのは自分だと思う。最後に選ばれるのは自分だ。
「何だ、これ」
ヒカルは店先に置かれていた水の入った鍋をのぞきこんだ。子供がやって来てヒカルを押し
のけると、手の平に軽く水をつけて、取っ手の部分をこすりはじめた。すると水面が揺れ、
水しぶきが起こった。ヒカルは目を輝かせた。
「おもしれえ! どうしてこうなるんだ?」
「たぶん振動で起こるんじゃないのかな。やってみたら」
アキラの言葉にヒカルはうなずくと、同じように水をつけてこすりはじめた。だが水面には
少しも変化は見られなかった。
「強すぎるんだよ。もっと軽くやってみたら」
言われたとおりにヒカルはまた手を動かしはじめた。それを何とはなしに見ていた和谷は、
急に下半身がうずくのを感じた。ヒカルの指先に性的なものを感じてしまったのだ。
アキラも同様なのか、頬を紅潮させて顔を横に向けて見ないようにしている。
「見ろよっ。立ったぜ!」
ヒカルが嬉々として言った。


(35)
揚げダンゴ、チマキに肉まんと、ヒカルは次々に胃袋に収めていった。
和谷も同じように食べたが、アキラはあまり口にしなかった。どうやら食べながら歩くのは
落ち着かないようだ。このお坊ちゃまめと和谷は口の中で毒づいた。
十二支の石像が置かれている小さな広場で一休みした。
ヒカルがウサギの頭によじ登る。その無邪気な様子に和谷は笑った。
「おまえなあ、みんな見てるぞ」
「けっこう座り心地いいぜ。和谷もどれかに座ってみたら? あっ、オレあれ食べたい」
出店を指差した。いろいろと並んでいて、どれを言っているのかわからない。
「買ってこいよ」
石像から降りるヒカルに手を貸してやる。だがそれでも着地したときにバランスを崩した。
よろけるヒカルを腕に抱きしめ、そっとその耳を唇で挟んだ。
「和谷! こんなところでふざけるなよっ。ったく……」
耳を押さえ和谷を睨む。だがその表情はかわいかった。
アキラのことなどどうでもいい。ヒカルの後ろ姿を見送りながら和谷は思った。
「……塔矢、やっぱりやめないか? そんなことをしても意味がないと俺は思う」
隣に立つアキラの顔を見ずに和谷は言った。
「もう俺はこのままでもいいよ。あいつが笑ってくれるなら、それでいいんだ」
「今さらそんなことを言うのは無しだ」
アキラの鋭い視線が自分をとらえる。和谷は不覚にもそれ以上の言葉を失った。
ヒカルが手に棒のようなものを持って戻ってきた。
「進藤、それは何だ?」
「サトウキビ。すぐに食べられるように、皮を削ってもらったんだ」
言いながらヒカルは茎にかじりついた。
「うわ、めちゃくちゃ硬い。それになんか微妙な甘さだな」
流れる汁を舐め取り、吸い付きながら少しずつ歯を立ててかじっている。
自覚のない仕草ほどやっかいなものはない。和谷は股間を押さえてしゃがみこんだ。
「どうしたんだよ、和谷」
「疲れてるんじゃないのか。そろそろホテルに帰ろう。いいだろう、和谷?」
和谷はうなずいた。うなずくことしか選択肢は残されていなかった。



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