うたかた 31 - 35
(31)
「ごめん、冴木さん!」
病院の領収書を挟んだ手を顔の前で合わせて、ヒカルが謝った。
「いいよ、そのうちタイトル取って金持ちになる予定だから。」
冴木が笑ってヒカルの手から領収書を取ろうとすると、ヒカルは急いでポケットにしまい込んだ。
「おかあさんが診察代返すときに一緒に渡す。それにしても病院って保険証持ってきてないだけで、こんなに高く請求されるんだなー。知らなかった。」
「一つ利口になったな、進藤。」
和谷がいつも通りの口調で意地悪を言う。ヒカルがただの捻挫で済んだことに、よほど安心したらしい。
冴木は口げんかを始めたヒカルと和谷を慣れた様子で制して、車に戻るためにもう一度ヒカルを抱え上げた。
ヒカルと和谷は車内で延々と言い争いを続けていたが、結局は『喧嘩するほど仲が良い』というやつで、和谷のアパートに着く頃にはすっかり二人とも笑顔になっていた。
「またなー進藤!」
「ばいばい和谷ー。」
和谷がアパートの中に完全に入ってしまうのを見届けてから前を向いたヒカルは、冴木が笑いを堪えてるのに気付いた。
「なに?冴木さん。」
「いや…あんまり二人が微笑ましいもんだから…」
ほんと飽きないなぁ、と呟くと、ヒカルはわけがわからないといった表情で首を傾げた。
進藤家に到着して、ヒカルの膝の裏に腕を差し入れようとすると、抱きかかえられている姿を母親に見られるのは格好悪くてイヤだ、と駄々をこねられた。
「じゃあオレの肩に腕回して、右足かばってこっちに体重かけろよ。ちょっと痛いと思うけど。」
身長差があるので少し前傾姿勢になって、ヒカルの腰をしっかり引き寄せた。肩を貸しているだけであって結局はヒカルが自分で歩かなければならないので、これはかなり痛いはずなのだが、思春期のヒカルにとっては足の痛みより家族への恥の方が重いのだろう。
玄関先で事情を知ったヒカルの母親は、冴木に何度も頭を下げた。肩代わりした診察代も、返さなくていいと言ったら余計に恐縮して何としてでも受け取らせようとした。
「二人とも、さっきから『本当にいいですから』と『申し訳ないので受け取って下さい』しか喋ってないね。冴木さん、貰っとかないと一生このやりとりが続くよ。」
ヒカルは面白そうに笑って言ったが、このままでは本当にそうなる気がしたので、冴木はスイマセンと言って診察代を受け取った。
冴木はその後、断る余地を与えられないままヒカルの家で夕食をご馳走になった。ヒカルが時折見せる強引さは母親譲りらしい。
(オレ、押しに弱いのかな…。)
そう言えば、対局でも『攻撃は最大の防御』というような力碁とは相性が悪い。
そんなことじゃ塔矢門下の芦原には勝てんぞ、という森下師匠の怒鳴り声が聞こえた気がして、冴木は溜息をついた。
(32)
夕食を終えて今度こそ帰ろうとしていた冴木は、一局だけ打っていこうとヒカルに袖を引っ張られて、やはり断ることが出来なかった。
「本当に一局だけだからな?」
(いや、どうしても甘くなってしまうのは、相手が進藤だからだ。可愛い弟分の頼みを聞いちゃうのは普通だろ、うん。)
自分に言い訳をしつつ、ヒカルの部屋に上がる。初めて足を踏み入れたその部屋は、予想以上に立派だった。
(…オイオイ、最近の中学生は贅沢だな。テレビも冷蔵庫も完備かよ…。)
本当のことを知らない冴木はただ驚きながら、碁盤の前に腰を下ろした。
「進藤は、今日なんで棋院にいたんだ?」
「…この前の大手合の一局で、検討したいやつがあったから和谷に付き合ってもらったんだ。」
「ああ、今週は師匠の都合がつかなくて研究会無いもんな。」
頷くヒカルの表情は、さっきよりも元気が無くなっているように見えた。
(……そう言えば、この前の大手合は進藤が負けたんだったな。)
「冴木さんさぁ、投了するとき『ありません』って言う?『負けました』って言う?」
「え?……さぁ、あんまり意識しないからなあ…。」
「オレ、『負けました』って言うの、すごい悔しいんだ。その一局がいい碁ならいい碁なほど、力を出し切れたなら出し切れたほど。だから『ありません』の方を使う。特に、今回の一局は半目差だったから…。」
こだわり過ぎかな、と俯くヒカルの頭をゆっくり撫でると、ヒカルはそのまま目線だけ上げて冴木を見た。
「進藤は負けず嫌いだからな。オレはいいと思うよ。負けることを悔しいって思わなくなったら、もうプロじゃいられない。」
今度はオレとその一局を並べようか、と冴木が微笑むと、ヒカルはぱっと笑顔になって頷いた。
(33)
「あ〜〜そうか、そこですぐ黒を切っておかなきゃいけなかったんだ!」
「そして次はケイマに打っておけば、もうここはどうやっても荒らせないだろ?」
検討は順調に進み、二人はヒカルの母親が持ってきた飲み物に口を付けないまま終局まで一気に行った。
ヒカルの晴れ晴れした顔を見て、冴木もつられて笑顔になる。
「ハハ、憑き物が落ちたような顔してるな。」
しかしそう言った途端、ヒカルからスッと表情が消えた。
「……憑き物…」
「え?おい、ただの冗談だよ、進藤?」
「………」
何か気に障ったのだろうかと、冴木が慌てる。ヒカルは碁盤に視線を落とすと、辛そうに顔を歪めた。
なんで落ちちゃったのかな、憑き物。
微かに唇が動いて、ヒカルがそう言ったような気がしたが、はっきりとはわからなかった。ただヒカルが今にも泣き出しそうで、そればかりが気になった。
「進藤、どうしたんだ?」
碁盤を横にずらして、ヒカルの近くに寄る。それでもヒカルは碁盤があった場所を見つめ続けていた。
「あ、ひょっとして足が痛むのか?」
冴木の言葉に、ヒカルがゆっくりと顔を上げる。
「………いたい…」
小さく掠れたヒカルの声は、今まで聞いたことのある声とはどこかが違っていて、自分が動揺したのがわかった。
冴木の肩口にヒカルの額が押しつけられる。
「…痛いんだ、ココが…ずっと…」
ヒカルの手は、指が白くなるくらい強く胸の辺りを握りしめていた。
「アイツのこと思い出すと……痛いよ……」
何かに突き動かされるようにヒカルの肩をきつく抱くと、ヒカルも冴木の背中に腕を回した。
ヒカルは泣かなかった。
けれど、ヒカルの心は泣いている。
痛い痛いと、泣いている。
アイツも冴木さんみたいに背が高かったな、とヒカルが独り言のように言った。
切なさばかりが、心に染みた。
(34)
ヒカルの柔らかい髪に顔を埋めると、甘い香りがした。発育途中の薄い肩は、抱く手に力を込めると壊れてしまいそうで少し怖い。
どうしてだろう。さっきから、やけに自分の鼓動が大きく聞こえる。
「…進藤?」
囁くように呼ぶとヒカルは目を瞑り、もうちょっとだけ、と冴木の胸に頬をすり寄せてきた。
(……困ったな。)
身体の一点に熱が集まってくるこの欲望の感覚は、よく知っている。しかし、その対象がヒカルだということに困惑してしまう。自分は一度だって、ヒカルをそんな目で見たことはなかった。
けれど、後ろめたい気持ちとは裏腹に、ヒカルの肩を抱くその手にはしっかり力が入ったままだ。
(『アイツ』って誰だろう。失恋でもしたのか?じゃあそいつのこと忘れさせるためにも押し倒しちゃおうかな。ほら、据え膳食わぬは男の恥って言うし。抱きついてくるって事は進藤も少しくらい、そうなってもいいやって思ってる可能性も否めないわけで)
都合の良い方向に展開してゆく思考を遮って、冴木のケータイが鳴った。ヒカルがゆっくり体を離すのに心の中で舌打ちして、通話ボタンを押す。付き合って1年になる恋人からだった。
『光二?約束の時間とっくに過ぎてるわよ。今どこにいるの?』
腕時計を見ると、9時を回っていた。恋人との約束をすっかり忘れていたことなんて、今まで無かったと言ってもいいくらいなのに。
(────オレとしたことが…。)
「ごめん、由香里。ちょっと色々あって。」
電話の向こうで小さな溜息が聞こえる。
「…今すぐ行くよ。」
隣でヒカルが少し悲しげな表情をした。
(35)
森下師匠の研究会に来ている子が怪我をして、家まで送っていたことを話すと、由香里は一応納得したようだった。
待ち合わせの場所であるバーのカウンターに座って、グラスを傾ける。きらきらと金色に光るこのカクテルの名前はなんだろう。ヒカルの前髪の色とよく似ている。途端に手のひらにヒカルの髪を撫でる感触がよみがえった。さらさらの柔らかい髪。
(やっぱり進藤の傍にいてやればよかった…。)
冴木が由香里との電話を終えてケータイを閉じた時、ヒカルはいつもの明るい表情に戻っていた。
「彼女から?」
からかうように笑って、横にどけられた碁盤の前に座り、碁石を片付け始める。冴木はそれを手伝いながら、ごめんと言った。
「ごめん、行かなきゃ。」
「なんで謝るんだよ。もうあとは自分で片付けられるから、早く行ってあげて。」
微笑みながら言ったヒカルのあの言葉は本心だったのだろうか。
ドアを開けて部屋を出る時、ヒカルはまだ石を片付けていて後ろ姿しか見えなかった。背中がやけに小さく見えた。
「光二ってば!」
不意に意識が現実へと戻る。目線を右に移すと、由香里が眉間にしわを寄せてこちらを見ていた。
「あ…ごめん。何?」
「何、じゃないわよ。さっきからずっと呼んでるのに。今日のあなた、なんか変よ。」
「…そうかな。」
由香里は冴木を呆れたように見つめ、次の瞬間カウンターに肘をついて冴木に顔を近付けた。
「同じ研究会の子って、女の子でしょ。」
「………。」
予想もしていなかった言葉に冴木が沈黙すると、由香里はそれを肯定として受け止めたようだった。
「やっぱりね。そういうことなんだ。」
「そういうことって何だよ。誤解だ。」
勝手に帰り支度を始める由香里の腕を掴む。
「おい、」
ちゃんと話を聞けよ、と言いかけたが、掴んだ腕をやんわりと外されて、何も口に出せなかった。
「あのね、光二。私は今日2時間も待たされてイライラしてるの。お願いだから、これ以上私を怒らせないで。」
静かな言い方が逆に怖かった。モデルのように鮮やかにターンして出口に向かう由香里を引き留めることは、もう出来なかった。
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