ウツクシキコト 31 - 35
(31)
阿瀬は、小君の乳母の息子で、小君の乳兄弟ってヤツらしい。
なんでもね、小君って貴族のお嬢さんなんだって。
佐為はね、殿上を許されてるって時点で、もう大貴族なんだよね。傍流とはいえ、藤原氏だし。
小君の家は、それに比べたら遥かに下っ端らしいけど、貴族は貴族。
そうでなきゃ、佐為に直接口なんて聞けないんだって。
小君は、行儀見習で佐為の屋敷に預けられているんだって。
もう少し大きくなったら、天皇のお后様のところに就職する予定があるから、そのための行儀見習。
阿瀬は真っ赤な顔してね、怒っていうわけだよ。
いずれ内裏に出仕する姫が、おいたわしいって。
ホントは屋敷の中のことは基本的に女房たちの管轄なんだけど、彼女たちは常日頃、佐為に可愛がられている小君を快く思っていないとかで、俺の事にかこつけて、小君をいびっているらしい。
で、俺は女房が小君をいびってる現場を、目撃しちまったんだ。
阿瀬から、話聞いてさ。ますますおまるで用をたすのが苦痛になって、小便は外の植え込みでやってたんだ。
佐為の屋敷は、何造りっていうのかわかんないけど、ぐるって部屋の周りに廊下が張り巡らされている。
その廊下の角、植え込みの辺りからは死角になって見えないとこで、誰かが口論しているのに気がついた。
俺、なんだろうと思ってそっと近づいていったんだ。
少し腰をかがめれば、廊下にいる人間に、俺の姿は見えないはず。
だから、足音に気をつけて近づいていった。
甲高い声の中に、俺は最近耳に馴染んだ声を聞き分けることができた。
「おやめくださいませ」
それは、小君の声だった。
「お通しくださいませ!」
俺は近づけるとこまで近づいて、少しだけ腰を伸ばして廊下の上に目をやった。
小さな小君が、三人の女房たちに取り囲まれていた。
女房たちは、口々に何か囃し立てている。
「お館様の命にございます。どうぞ、お通しくださいませ」
頬を真っ赤にした小君が、それでも凛とした声を張り上げる。
小さな彼女の全身から犯し難い気品みたいなものが迸っているようで、俺は心の中で賞賛の拍手を贈っていた。
女房もそんな小君の姿に打たれたのか、行く手を阻んでいた女が、のろのろと脇に退く。
小君は少しほっとした表情で、静々と歩き出した。
(32)
両手で膳を捧げ持っていた。
俺の食事だと思うと、誰に説明されなくても自ずとわかる。
鬼の子に食事を運ぶなと、文句を言ってたんだろう。
女房たちは真っ白に白粉を塗って、口紅さして、歯を黒く染めてたから、間違いなく大人の女だ。それなのに、まだ数えで九つにしかなってない小君を、ねちねち苛めてるんだ。
俺は考えれば考えるほど腹が立った。
でも、ここで俺が切れると、迷惑するのは小君だとグッと我慢したんだ。
だけどさ、見ちゃったんだ。一人の女が小君の衣装の裾を踏む瞬間を――――。
みんなね、ズルズルした衣装を着てるから、誰のどの足とは言えないよ。
でも、大きく前につんのめった小君の体が、不自然に制止し、一拍置いてからどっと倒れたのは、どう考えてもおかしかった。
わざと踏んで、わざと足を離した。
そう考えれば、辻褄がつく。
少し遅れて、小君の悲鳴が俺の耳に飛び込んできた。
「熱い、熱い!」と泣き叫ぶ声にかぶさるのは、女房たちの甲高い笑い声。
俺は知らずのうちに駆け出していた。
「小君!」
―――――きゃぁ、鬼じゃ、鬼じゃ。鬼の子じゃ!
女たちは、やはりどこか楽しそうに悲鳴をあげながら、あたふたと逃げ出していく。
「小君、大丈夫か!?」
廊下に上がる階段を探す余裕なんてなかった。どうやって飛びつきよじ登ったかは、いまでも思い出せない。
「ヒカル、熱いよぉ!」
膳に乗っていたお椀が、小君の衣装の空になって転がっていた。
そこに立ち込める甘い匂いには覚えがあった。
この数日、何度も口にした葛湯の匂い。
あれは熱い上にとろりとしている。
「小君!」
小君の可愛い顔や手を濡らしている液体は、きっと葛湯だ。
「しっかりするんだ!」
小君の小さな体を抱き上げると、もう一度庭に下り、池に走った。
(33)
俺がいま寝起きしている部屋の前には、小さな泉が湧いている。俺はそこに走った。
ひしゃくを手に取る余裕はなかった。
もう赤く色が変わり始めた小さな手を、まず泉にざぶっと浸した。
俺も自分の手を泉に浸し、冷たい水を掬うと小君の顔を濡らしてやった。
とろりとした葛湯がの感触。
俺の膝の上で、小君はえーん、えーんと声をあげて泣いている。
しっかり者の印象が強いけど、小君はまだ子供なんだよな。
「小君、大丈夫だからな」
そう声をかけては見たが、何が大丈夫なのか、自分でもわからなかった。
「手と顔の他に熱いとこ、ないか?」
小君は泣きながら顔を横に振る。
何度も何度も水を掬って、小君の顔を拭ってやった。
「ちい姫!」
そのうち、泣き声に異変に気づいた阿瀬が駆けて来た。
一部始終を話して聞かせると、悔しそうに口をへの字にして、阿瀬は小君を抱き上げ姿を消した。
夜になってから、俺のとこにやってきて、軽い火傷で痕も残らないって教えてくれたけど、俺も阿瀬もかなりへこんでいた。
男の癖に、まだ九つの小君を守ってあげられなかったことが、たまらなく情けなかった。
そんな訳で、昨日は一睡もできなかったし、夜が明けてからは誰も訪ねてこない。
腹が減ったことより、小君がこないことのほうが心配だった。
阿瀬は軽い火傷だって言ってたけど、それが原因で熱を出すことも考えられるし……。
ホント心細かった。
そんな矢先に、佐為が帰ってきたんだ。
俺、安心したもんだから、なんか目が潤んじまって。
へへ、ホント情けない。
でも、そんな情けない俺の涙を、佐為の指が拭ってくれる。
(34)
「ヒカル……、いろいろな事情から、当家の女房たちは宮中から遣わされた者が多く、気位が高い。
私が常に屋敷にいれば問題もなかろうが、お役目もあればそれもままならぬ。
阿瀬の母は…、阿瀬は知っておるな、小君の乳母子じゃ。
阿瀬の母ならば、ヒカルを温かく迎えてくれよう。そなたに異存がなければ、その様に手配するが?」
俺は佐為の言葉に、即座に首を振った。
「いやだ。やっと、やっと会えたのに、どうしてまた離れなきゃなんないんだよ!
嘘吐き! 佐為の嘘吐き。傍にいていいって言ったじゃないか!?」
「嘘吐きとは……、辛辣な」
「だって、俺言ったよ。佐為の傍にいたいって。佐為と碁を打ちたいんだって。佐為は許してくれたじゃないか!?」
どんな悪戯が、俺を千年の昔に連れてきたのかは、わからない。
それ以前に、これが現実なのか、夢なのかもはっきりしない。
俺が覚えている現実は、塔矢に迫っていたトラックだ。
自分が何をしたかは覚えていない。
全身に感じた痛みと、つつじの植え込みに半ば埋もれ、目を瞠いていた塔矢の白い顔が、俺の覚えている現実だ。
意識を失った俺が、次に目を覚ましたとき、ここにいた。
ここ、―――――千年の時を遡り、佐為が生きる平安の都。
ここに来てから毎晩、眠る前に考えるんだ。
次に目覚めれば、俺は平成の東京にいるのかもしれないって。
もしかしたら、天国にいるのかもしれない。
いや、散々塔矢を苦しめた俺だから、天国じゃなくって地獄かもな。
正直、考えれば考えるほど不安なって、ぐっすり眠ったこともなければ、爽やかに目覚めたこともない。
いつだって、眠ることが怖いし、目覚めることが恐ろしい。
何が夢で、何が現実なのか、俺にはわからない。
誰にもわからない。
それでも、佐為に会えたことは、間違いなく嬉しいんだ。
この世界の佐為は生きてるから、前みたいにずっと一緒にいられないことは、この三日間で思い知ったよ。
それでも、ここにいれば佐為の生活に触れていることができる。
近くにいれば、気まぐれに碁だって打てる。
そりゃ、嫌なもの見たし、聞いたし、ムカツクこともあるけど、やっぱりここを離れられない。
ここから離れるってことは、それだけ佐為と距離ができるってことだからさ、離れるなんてできるはずがない。
(35)
「ヒカル……、何故だろう。私は、そなたを手放しとうない。まだ出会って間もないというのに、そなたは心の琴線をかき乱す。
何故であろう? 浅からぬ縁があるやもしれぬ」
それは、俺に向かって囁かれた言葉だった。だが、俺に聞かせるためのものではなかった。
「ヒカル、何があっても私の傍らに留まることを望んでか?」
俺は、唇を噛み締めた。
もう離れたくないんだ。もう、あんな思いは二度と味わいたくない。
これが夢でも、現実でも、なんでもいい。
俺は、佐為の傍にいたい。
ずっと一緒にいたいんだ。
「わかった」
佐為が真剣な面持ちで頷いた。
心の中で呟いたつもりだったのに、俺は自分でも気づかないうちに言葉にしていたらしい。
「ヒカル、どんな辛い事でも耐えられるか?」
「それで、佐為の傍にいられるなら」
「不思議な子だ」
佐為は溜息のように優しく呟くと、いきなり俺の体を抱きあげた。お姫様だっこってヤツだ。その態勢で歩き出す。
「佐為?」
あの佐為が、俺の体を軽々と抱き上げていることにも驚いたけど、邪魔な衝立を足で乱暴に蹴り倒したのにも驚いた。
「佐為、どこにいくんだ?」
「私の寝所」
「シンジョ?」
「ヒカル、そなたに今宵の伽を申しつける。よいな?」
腕の中の俺を身つめる佐為の、きりっとした視線に、俺は思わず頷いていた。
でも、その時点で俺は、佐為が何を望んでいるのか、まだわかっていなかった。
ただ、一分でも長く、一秒でも長く、佐為と一緒にいたい。
俺が望んでいたのは、ただそれだけだった。
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