クチナハ 〜平安陰陽師賀茂明淫妖物語〜 32
(32)
「勝手に逃げ出したのか、わざと放したのかが問題だ」
緒方が低い声で云った。
「宮がどのようなお人柄であるか詳しくは存じ上げないが、その境遇を考えれば
帝の兄でありながら強い後ろ盾を持たなかったため皇位とは無縁、
都人からも半ば忘れられかけた非運の皇子――という見方も出来る。
時の政治に不満を持つ皇族や朝廷人が帝を呪詛したり内裏に火を放ったりした事件は、
この国の歴史の中でこれまでにもあったことだ。一の宮がもし帝を恨んでおいでだと
すれば、まず帝の信頼厚い天才陰陽師として名を馳せる賀茂の身動きを取れなくさせ、
その間に帝やこの都に対して何らかの陰謀を企むことも十分考えられる」
「そんな・・・」
光は白い単姿で脇息に凭れている明を見た。
連日のクチナハとの攻防で疲れているのか目の下にうっすらと蒼い隈を作って、
少し姿勢を崩し首を前に傾けているその姿は普段より一層儚げに見える。
その明が良くわからない政治的思惑のために妖しに苦しめられ、しかもそれが
都や帝の危機に繋がっているかもしれないとすれば、これは一大事ではないか。
明を助けたいという気持ちに加え、都の人々の笑顔を守る検非違使としての正義感が
沸々と光の胸に湧き上がってきた。
「そんなことが起こってるかもしれないんなら、ますます放っておけねェ!
どうすりゃいいんだ!?よしっ、まずオレがその宮様のうちに乗り込んで――」
「いや、それは駄目だ。不遇な立場にあるとは云え相手は帝の皇子。
万一間違いだったり、無礼があったりしては――」
「ああ。それに今話したことがもし当たっているとすれば、何の準備もせずに
乗り込むのは丸腰で敵の懐に飛び込むようなものだ。危険過ぎる」
「でも、じゃあどうすりゃ――」
うーん、と三人で額を寄せ集めて考え込んだ。
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