うたかた 32 - 33
(32)
夕食を終えて今度こそ帰ろうとしていた冴木は、一局だけ打っていこうとヒカルに袖を引っ張られて、やはり断ることが出来なかった。
「本当に一局だけだからな?」
(いや、どうしても甘くなってしまうのは、相手が進藤だからだ。可愛い弟分の頼みを聞いちゃうのは普通だろ、うん。)
自分に言い訳をしつつ、ヒカルの部屋に上がる。初めて足を踏み入れたその部屋は、予想以上に立派だった。
(…オイオイ、最近の中学生は贅沢だな。テレビも冷蔵庫も完備かよ…。)
本当のことを知らない冴木はただ驚きながら、碁盤の前に腰を下ろした。
「進藤は、今日なんで棋院にいたんだ?」
「…この前の大手合の一局で、検討したいやつがあったから和谷に付き合ってもらったんだ。」
「ああ、今週は師匠の都合がつかなくて研究会無いもんな。」
頷くヒカルの表情は、さっきよりも元気が無くなっているように見えた。
(……そう言えば、この前の大手合は進藤が負けたんだったな。)
「冴木さんさぁ、投了するとき『ありません』って言う?『負けました』って言う?」
「え?……さぁ、あんまり意識しないからなあ…。」
「オレ、『負けました』って言うの、すごい悔しいんだ。その一局がいい碁ならいい碁なほど、力を出し切れたなら出し切れたほど。だから『ありません』の方を使う。特に、今回の一局は半目差だったから…。」
こだわり過ぎかな、と俯くヒカルの頭をゆっくり撫でると、ヒカルはそのまま目線だけ上げて冴木を見た。
「進藤は負けず嫌いだからな。オレはいいと思うよ。負けることを悔しいって思わなくなったら、もうプロじゃいられない。」
今度はオレとその一局を並べようか、と冴木が微笑むと、ヒカルはぱっと笑顔になって頷いた。
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「あ〜〜そうか、そこですぐ黒を切っておかなきゃいけなかったんだ!」
「そして次はケイマに打っておけば、もうここはどうやっても荒らせないだろ?」
検討は順調に進み、二人はヒカルの母親が持ってきた飲み物に口を付けないまま終局まで一気に行った。
ヒカルの晴れ晴れした顔を見て、冴木もつられて笑顔になる。
「ハハ、憑き物が落ちたような顔してるな。」
しかしそう言った途端、ヒカルからスッと表情が消えた。
「……憑き物…」
「え?おい、ただの冗談だよ、進藤?」
「………」
何か気に障ったのだろうかと、冴木が慌てる。ヒカルは碁盤に視線を落とすと、辛そうに顔を歪めた。
なんで落ちちゃったのかな、憑き物。
微かに唇が動いて、ヒカルがそう言ったような気がしたが、はっきりとはわからなかった。ただヒカルが今にも泣き出しそうで、そればかりが気になった。
「進藤、どうしたんだ?」
碁盤を横にずらして、ヒカルの近くに寄る。それでもヒカルは碁盤があった場所を見つめ続けていた。
「あ、ひょっとして足が痛むのか?」
冴木の言葉に、ヒカルがゆっくりと顔を上げる。
「………いたい…」
小さく掠れたヒカルの声は、今まで聞いたことのある声とはどこかが違っていて、自分が動揺したのがわかった。
冴木の肩口にヒカルの額が押しつけられる。
「…痛いんだ、ココが…ずっと…」
ヒカルの手は、指が白くなるくらい強く胸の辺りを握りしめていた。
「アイツのこと思い出すと……痛いよ……」
何かに突き動かされるようにヒカルの肩をきつく抱くと、ヒカルも冴木の背中に腕を回した。
ヒカルは泣かなかった。
けれど、ヒカルの心は泣いている。
痛い痛いと、泣いている。
アイツも冴木さんみたいに背が高かったな、とヒカルが独り言のように言った。
切なさばかりが、心に染みた。
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