落日 32 - 36


(32)
焦点の定まらぬ虚ろな目をした少年をそっと床に横たえ、身体の汚れを拭いてやり、衣を着せ掛け
る。掴んだ腕に紅く指の痕が残っていた。肩や肘には擦れて紅い傷が出来ていた。
傷つけようなんて思っていなかったのに。
愛しているのに。
浅い呼吸を繰り返し僅かに眉根を寄せて目を伏せている彼の顔を覗きこみながら、髪をそっと撫で
付けた。そうしてずっと彼の顔に見入っているうちに、ぽたりとしずくが彼の頬に落ち、慌てて自分の
顔を袖で拭った。

「ごめん……」

「おまえは悪くない。おまえは何も悪くない。悪いのは俺だ。だから、」
許してくれなくていい。ごめん。おまえを傷つけてしまって。責めてしまって。
心の中で謝罪を繰り返しながら彼の髪を撫で続けた。また涙が落ちてきたのを感じて、洟をすすり
上げながら、袖で顔を拭った。こんなにも涙が止まらない自分の愚かさが哀れだと思った。

―――それでも、それでもおまえが好きなんだ。

見つめるうちに彼の顔が安らいでくる。眠っている彼は幼子のようで、見ていると胸が締め付けられ
るようだ。
薄紅色の柔らかな唇にくちづけを落としたかった。
せめてもう一度触れたかった。
そう思いながらずっと眺めていたのに、それでも、どうしても触れる事が出来なかった。


(33)
佐為。
佐為に会いたい。

どれ程暖かな胸も腕も、どれ程強くきつく抱きしめられても、それでも足りない。
違う。欲しいのはこの腕じゃない。
甘い囁き声も、記憶に残る声と違う。
違う。欲しいのはこんなのじゃない。
佐為。
会いたい。
おまえに会いたい。
他の誰でも、おまえの代わりになんかならない。

佐為。どこにいる?どこに行けばおまえに会える?
なあ?佐為。どこにいるんだよ。返事をしてくれよ。
寒いよ。寒くて凍えそうだよ。
佐為。早く俺を探し出して。
俺を見つけて、そして抱きしめて。


目覚めた時はまた、広い室内に一人取り残されていた。
ふわり、と、懐かしい香りが漂ったような気がして、ヒカルはゆっくりと身体を起こした。
からりと戸を開けて縁側に立ち、更に裸足のまま庭に降り立つ。庭の隅に色とりどりの小菊が咲いて
いた。萩の花はとうに散ってしまったようだが、花びらの名残の残る木の根元には竜胆がまだ咲き
残っていた。
空を見上げると、暮れかけた空に白い三日月が浮かび、月に寄り添うように宵の明星が輝いていた。


(34)
佐為の屋敷を目指して歩き出していた足は、気付いたら違う方向へ向かっていたらしい。
思っていた所と違う場所へ辿り着いてヒカルはなぜここへ来てしまったのだろうかと呆然と門を見
上げた。
なぜ、と思いながら途方にくれてヒカルは辺りを見回し、西の空に浮かぶ白く細い月を見て、ああ、
そうだったのか、と不思議に納得した。
誰もいない事がわかっている佐為の屋敷を訪れるのが恐ろしくて、だから自分は彼に縋ろうとした
のだ。あの白く細い月が、なぜだか彼の事を思い出させて、ここへと足を運ばせたのだ。
けれどしんと静まり返った屋敷を前にして、ヒカルは躊躇した。
「……賀茂…?」
それでも、そっと名前を呼んでみた。
呼べば応えてくれるはずだと言う、何の根拠も無い自信があった。
門扉に手をかけると閂も錠もかけられていない扉はぎいと音をたてて開いた。

けれど彼の呼びかけにも、物音にも、応える者はいない。
屋敷は静まり返り、そこに人の気配はない。

いない?

いない?どこにもいない?
なぜ?どこへ行った?


(35)
偶々留守をしていて今ここにいないのだという事になど、思い当たりもしなかった。
その時、ヒカルの心を占めていたのはただ一つ「いない」と言う事のみで、その理由まで、問う余裕
は彼には無かった。
いない。どこにもいない。誰の気配もしない。

ぞくりと体が震えた。

本当に、彼はいたのだろうか。
彼と過ごした日々は、あれは夢ではなかったか。
彼がいて、あの人がいて、自分は笑っていて、つまらない喧嘩もしたけれど、大変だったけど、死に
そうな思いもしたけれど、でも、楽しかった。
あれは本当にあった事だろうか。
全て自分の見ていた夢ではなかったか。

だって、誰もいない。
佐為もいない。
賀茂もいない。
ここには誰もいない。

そうしたら、俺だって。
本当にここにいるのか?
本当に俺は、生きて、ここにいるのか?
ここにいる俺も幻じゃないのか?


(36)
衣擦れの音が聞こえる。次いで密やかに優雅に笑いさざめく女房たちの声がする。
華やかな衣装。優美な仕草。艶やかな女房や公達。
けれどその中に誰よりも美しく優美なあの人はいなかった。
きらびやかな内裏を、さわさわと衣擦れを立てながらすれ違う貴族達。その中に、見知った顔を見
つけてヒカルは声をかけるが、彼女はヒカルの問いを否定する。
「どなたのことですの、その方は。」
何を言うんだ。あの時、佐為と碁を打っていたじゃないか。
「帝の囲碁指南役、それはあの方でしょう。菅原様、菅原様はご存知ですか?」
「まあ、おかしな事を。もう一人の囲碁指南役ですって?」
「そのような者はおりませぬ。」
「帝の囲碁指南役はこのお方、菅原様お一人でございます。」
「藤原佐為など、」
「そのような名の者は」
存じませぬ、と女房達は声に出さずににっこりと冷たい笑みを返す。
そんな筈は無い、と彼が次々を見覚えのある顔を、ついには見も知らぬ相手を捕まえて何度問お
うと、返ってくる答えは皆同じだった。誰に尋ねても、その名を知る者はいなかった。
ふと眉を曇らせ思いを遠くに馳せるような表情をした者も、次の瞬間、周りの刺すように冷たい視
線を受けて、仮面のような笑みを浮かべて、「そのような者は知りませぬ。」と彼を否定する。
誰もが皆、自分を騙しているのだと思った。
佐為はいたのに。
確かにいたのに。
皆、彼を忘れたのか。
いや、無かった事にしてしまいたいのか。
なぜ。
泣きそうになりながら辺りを見回す。
見知った顔はいないかと。



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