裏階段 アキラ編 33 - 34


(33)
そんなに長居するわけでもなく、熱帯魚の水槽を覗き、パソコンで棋譜を
引っ張りだして眺め、そして帰って行く。
こちらに用事があって留守にする時はそれとなく伝えた。
特に約束をするわけでもなく、塔矢家で顔を合わせた時もお互いにその事を口にしなかった。
いろんな物に好奇心が働く年頃だ。目新しいものに一通り馴染んだらすぐに飽きるだろう。
その位に思っていた。
だが思った以上にアキラはパソコンに興味を持ち、基本操作を覚えると
そのうちオレの部屋でパソコンの前を占領する時間が増えて行った。

「アキラが君のところにパソコンを習いに行っているようだね。この前初めてアキラから
聞いた。迷惑をかけていたようだ。すまない。」
研究会の折りにふいに先生からそう言って頭を下げられて慌てて答えた。
「いえ、…別に迷惑というほどでは。ただ、アキラくんはパソコンが気に入ったようです。」
間もなくアキラにそのパソコンが買い与えられ、それからぷっつりアキラは来なくなった。
現金なものだな、と思った。
まあこれで土曜日に気兼ねなく外泊が出来ると考えれば少し肩の荷が下りた気がした。
彼女の一件以降、何となくアキラに見張られているような、そんな気がしないでもなかった。
ある時塔矢家に訪れた際にアキラの部屋を覗いてみると、アキラが自分のパソコンに向き合っていた。
「なかなか良い機種を手に入れたじゃないか。調子はどうだ。」
アキラはモニターから視線を外そうとせず、ぽつりと呟くように言った。
「まだうまく出来ない…。でも、お父さんが、緒方さんに頼ってばかりいるのはいけないって…。」
そしてアキラは睨むようにしてこちらを見た。
「ボクが来るのは、迷惑でしたか…?」


(34)
一瞬、返答に詰まった。
迷惑だったと言ってしまえば、恐らく二度とアキラはうちにやって来なくなるだろう。
迷惑などではなかった。決して。
つき合っている女が出入りする事よりアキラが出入りする事をオレは選んだのだ。
餌付けをした野鳥が軒先きでくつろいで行くのを眺めるように、それは、特に目的も意味も無い時間の
ようであったが、二人にとって必要な時間だった。そんな気がする。
そこには暗黙の了解が合った。自分達は密かに一緒に時を過ごす事を楽しんでいた。
だがそれはどちらかが一歩足を踏み込めば何かが崩れ、バランスをなくして掻き消えてしまう空間でも
あった。これ以上時間を重ねれば、確実にその時はやって来る。
現に今、アキラがその一歩を踏み出そうとしているような気がした。
情けないがそう感じた。アキラの強い視線に怯んだのだ。
「…わからない事があったら呼んでくれればいい。いつでもここに来て、教えてやるよ。」
自分で自分に嫌悪する曖昧な返答だった。アキラの瞳が失望に沈むのが見て取れた。
「…大丈夫です。多分…、一人で…。」
声を固くし、視線をモニターに戻す。
「…芦原さんにでも、教えてもらいます。」
それはアキラの精一杯の防衛線に思えた。
オレはただ黙ってその場所から離れた。おそらくアキラはもう来ないだろう。
ふいにアキラがやって来ても困らないように無意識のうちに買い置きしてあったジュースや
パウンドケーキの類を冷蔵庫の奥に押し込んだ。

その後日、思い掛けないかたちでアキラは再びここに来た。



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