平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 33 - 34
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閣議が終わって、伊角が再びヒカル達のいる部屋に戻ってきたのは、二刻もして
からだった。
今日の議事の結果について、伊角と門脇、和谷が話しあっているのをぼんやりと
聞き流しながら、ヒカルは以前、アキラに『佐為は負け犬だ』と言われた事を思い
出した。内裏での政争で破れて死の世界に逃れたのだと言われたそれに、今更、腹が
たってきた。
(佐為の事、よく知りもしないくせに)
ヒカルにはわかる。御前対局で不正者の汚名を着せられ、屈辱と絶望に死を思うほど
打ちひしがれた佐為を、最後に沼のほとりへと突き動かしたのは、きっと怒りだ。
碁を権力のために踏みにじった者に対する激しい怒り。内裏の人々が噂するような
悲嘆や、世への憂いではない。佐為は碁の事で怒ると見境いがなくなるのだ。ヒカルの
ことを思い出すこともできなくなるほどに。
伊角が立ち上がったのを目の端に捉えて、ヒカルも立ち上がった。
(しょうがない奴だよなぁ、ほんと)
秋風吹き抜ける渡り廊下を、伊角の後をついて歩きながらヒカルは考える。
あの穏やかで、時には怜悧なほどに静謐とした趣を漂わせる藤原佐為という人物が、
その内面に驚く程の激情を抱えていたことに気付いた人はいったいどれほどいるの
だろう。
この秋風を彷彿とさせる表情の奥に隠されたあの野分のような気性の激しさを
きっと誰もしらない、
賀茂も、あかりも。内裏の貴族や女房はいわずもがな。
佐為と本気の碁を打ちあった藤原行洋がせいぜいその表層に触れたことがある
程度だろう。ヒカルだけだ、知っているのは。
特に自分が好きだとこだわる事に関しての、かの人の心の寄せようは時にヒカルも
驚くほどで。
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碁盤に向かって石を打ち込むときもしかり、あるいは自分を閨で抱くときもしかり。
そして、ヒカルはそんな佐為を知っているのが自分だけだということが嬉しかった。
佐為がそんな風な一面を隠さずさらすのは、自分に対してだけだという、くすぐっ
たいような優越感。
普段、姫事の最中は過ぎるほどに優しい佐為が、ふとした拍子に豹変し、その
激しい一面を見せることがある。だからそんな時にはヒカルは思うのだ。
そんな佐為をもっと見せて欲しいと。遠慮なんかすることないのにと。
それは一種の独占欲だったのかもしれない。
――誰も知らない俺だけの佐為。
しっとりと汗にしめる佐為のなめらかな背に腕をまわす自分。
腕の中のこの美しい人は、確かにヒカルの物だ。
ヒカルは佐為のものだったが、佐為もまた、ヒカルのものだったのだ。
恋のような友情のような、不思議なものに繋がれた関係。ただ愛おしさだけがそこに
あった。
考えながらヒカルは、口角を少し上げ無意識に微笑んでいたらしい。
「何を思い出し笑いしてるんだ?」
伊角の声に、我にかえる。
「あ、うん。ごめん。なんでもない」
敬語もへったくれもないその言葉遣いに、また岸本のきつい目線がヒカルにささり、
その様子に、後ろで和谷がクックッと忍び笑いを漏らす。
一行がとある渡り廊下の一角にさしかかった時だ。
渡殿に寄り添うように植え込まれた背の低い常緑樹。
椿に似ているが、椿よりわずかに小振りなその葉にまぎれて沢山の円い蕾が
咲き時を待っていた。
だが、その中に一輪だけ、すでにほころび、薄桃の可憐な花弁を広げているものが
ある。
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