クチナハ 〜平安陰陽師賀茂明淫妖物語〜 33 - 36
(33)
「・・・法力勝れた聖の噂を、聞いたことがある」
ややあって、緒方がぽつりと呟いた。
「ヒジリ?」
「ああ。難波の出身で、長年仏道の修行に励み強い法力を得たとか。
その聖が最近洛外の山中に庵を結んで修行をし、時折街に下りて来ては
人々の病を治したり物の怪を退治したりして、評判を呼んでいるそうな」
「そのお坊さんを連れて来たら、賀茂の中の妖しも退治してくれるかな?」
「わからんが・・・他に手立てもないなら、坊主に相談してみるのもいいんじゃないかと
思っただけだ」
緒方が難しい顔でふんぞり返った。
もし無駄に終わっても己のせいではないと言いたげだ。だが、本当の所は緒方も
途方に暮れているのだろう。
「近衛・・・」
明が心配そうに光を見る。光は安心させるようににっこりと笑顔を見せた。
「賀茂、そんな顔すんなって。オレ、そのお坊さんに訳話してここに来てもらう。
嫌だって云われたら、地面に頭つけてでも来てもらう。
・・・きっと何とかなるさ!大丈夫!」
思い切り笑うと真っ白な歯がこぼれる。
その底抜けの前向きさが眩しくて、明は目を細めた。
(34)
「じゃ、行って来る!今日中には戻れないと思うけど、その御符しっかり持って
待ってろよな」
庭まで引いて来た馬に跨りながら、開け放たれた室内の明に向かって光が云った。
「うん。・・・すまない、近衛」
今クチナハが大人しくしているのは、御符の効力の他に今が日中だからというせいも
あるだろう。
日が落ちてから彼奴の動きがまた活発になり始めることは予想出来た。
その時光と一緒にいられないのは心細いが――
己のことばかりではいけない。
明はにっこりと微笑んでみせた。
「道中は、気をつけてくれ」
「ウン、それじゃな!あっそうそう、そのお坊さんの名前、何て云うんだ?緒方様」
「吉川上人だ。白犬と一緒に修行してる聖と云えば分かるらしい。
賀茂にはオレがついているから、心置きなく行って来い」
「ウンッ、ありがとう!・・・ございます。じゃーな、賀茂!行って来る!」
軽やかに蹄の音を響かせて光が去って行った後を明がいつまでも眺めていると、
その視界を遮るように、緒方はザッと庭に面した御簾を下ろしてしまった。
あ、と明が小さく声を洩らす。
「何だ?」
「・・・いえ」
「ふん。・・・気に入らんな」
緒方はのしのしと明が半身を起こしている枕元まで来ると、どっかりと腰を下ろした。
「オレや高貴な御方が言い寄るのを剣もほろろに跳ねつけて来たおまえが選んだのが、
あんなガキだったわけか?ええ?」
「・・・・・・」
その通りなのだが、ただそうですと肯定するのも間抜けな気がして、明は黙っていた。
こんな時気の利いた歌の一つも返せるような己であったなら、
人付き合いももっと上手に出来るだろうに。
(35)
「・・・まぁいい」
緒方が扇をパチンと打ち鳴らすと、従者がそっと姿を見せた。
「お呼びでしょうか」
「今夜はここに泊まるから、オレの邸に使いを出してそう伝えろ。
それから、食物を届けさせろ。食欲の出そうなものと、精の付きそうなものと、
それに先日帝より下賜いただいた珍しい唐菓子があったろう。あれもだ」
「はっ」
「他に欲しい物はあるか?」
緒方が振り向いた。明は少し考えてから、傍らで丸くなって羽を休めている
小さな友達を見遣って云った。
「鳥が啄めるような、生の青菜と雑穀の類を少しいただければ」
「・・・だそうだ。新鮮な青菜を一束と、搗いた米を袋に一杯持って来い。
帝に献上しても通るような、質の良い奴をな」
「はっ。かしこまりました」
光が発った上に従者も退がり二人きりになってしまうと、
沈黙と共に今までの疲れがどっと押し寄せてくる。
気づかれないようそっと吐いた溜め息を緒方が耳聡く聞きつけ、苦笑した。
「そう嫌そうにするなよ。・・・嫌がられてもオレは今夜おまえの側を離れるつもりはない。
諦めて今の内に眠っておくなりするんだな。この数日はろくに寝ていないんだろ?」
そういうつもりで溜め息を吐いたのではない、と説明しようとしたが
誰かに気遣われ、見守られているという安心感がこれまで張りつめていたものを
急激に緩ませたのか、瞼が重りをつけたように下がってきた。
夕刻からクチナハがまた活動を始めた場合に備えるためにも、
今はとにかく少しでも寝て体力を回復しておくほうがよい――
緒方に少し申し訳なさを覚えつつ、明は無言で目を閉じぱったりと倒れ臥した。
(36)
馬を飛ばして山あいの小さな村に着いたのは、
秋の日が金色から紅に変わり山の端へと沈んでいこうとする時分だった。
「ふいーっ、何とか日が落ちる前に着いたか。オマエ、よく頑張ってくれたなぁ。
すぐどっかで水飲ませてやるから、もうちょっとだけ頑張ってくれな」
ぶるんと鼻を鳴らす葦毛の馬の首を労うように叩きながら、
光は暮れなずむ風景を見渡した。
小さいが平和そうな村だ。そろそろ一日の仕事が終わる時間なのだろうか、
鋤や鍬を肩に担ぎ牛を引いてゆっくりと田畑から引き揚げてくる者たちがいる。
その間を擦り抜けるように、童たちが何か歌を歌いながら紅い蜻蛉を追って駆けて行く。
都人のなりは珍しいのか、横を通り過ぎようとした年嵩の童の一人がちらっと
馬上の光を見たのと目が合った。
「あ、待ってくれ。ちょっと質問してもいいか?」
一人を呼び止めると全員が集まってきた。
光に声を掛けられた童が、不審と好奇心の入り混じった瞳でぶっきらぼうに訊いた。
「なに?」
「あのさ、この辺りに吉川上人っていう方、いるかな」
「よしかわしょうにん?」
童たちは互いに顔を見合わせ、首を振っている。
「知らねェか?法力の強い、難波から来た坊さんで・・・なんか、
白犬飼ってるとか聞いたんだけど」
「ああ、シロのお坊さん!」
「シロのお坊さんだね」
シロとはその犬の名前だろうか。
優れた法力の有難味より何より、童たちにとってその聖は白犬の飼い主としての
認識が強いらしい。
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