黎明 33 - 36


(33)
ここにいるのは佐為じゃない。今自分を抱きしめているのは、自分が抱きついている身体は、佐為
じゃない。欲しいのは佐為なのに、どうして佐為がいないんだ。こんなもの、こんなもの欲しいわけ
じゃない。俺が欲しいのはこの身体じゃない。
「嫌いだ。」
涙を流し、目の前の身体にしがみつきながらヒカルは言った。
「おまえなんか嫌いだ。おまえなんか佐為じゃない。欲しいのは佐為だ。佐為だけだ。
おまえなんか要らない。佐為を返せ。俺に、俺に佐為を返せ…!」
そういいながら、背中に爪を立てる程に必死にしがみつき、ただ、その身体の熱い体温と拍動を、
確かな身体の重みを求めた。ぎりぎりと締め上げるように抱きしめる腕の強さが心地よかった。
燃え上がるような身体の熱さが心地よかった。
「おまえなんか嫌いだ。嫌いだ…」
言いながらヒカルは熱い涙をこぼした。
けれど、どれ程の涙を流しても、失われたひとが還ってくることはない。決してない。
ならばせめて俺が今ここにいるという証を与えてくれ。俺を望んでくれ。俺を欲してくれ。
「寒い…」
そしてこの身を暖めてくれ。失ったものを取り戻す事ができないのなら、せめて一時、この空虚な
闇を埋めてくれ。
寒いんだ。
寒くて寒くて仕方がないんだ。闇が、俺の中の闇が俺の熱を奪い、冷え冷えと全身を内から腐蝕
させて行く。だから、俺を暖めてくれ。外からも内からも、俺を暖めてくれ。
「寒いよ、寒いんだよ…俺を、あっためてくれよ…」
けれど灼熱の身体は彼を抱きしめはするものの、彼が最も求めるものは与えられず、願いは聞き
入れられる事はなく、ただ涙だけが頬を伝わり枕に落ち、そのまま褥に吸い込まれ、手が届くところ
に求めるものがありながらもそれを奪い取る事のできない焦燥感に彼は身を焼き、ついには己の
望むものが何だかもわからなくなり、ただ熱い炎に飲み込まれ、そして飢餓と絶望との混乱の内に
意識を失っていった。


(34)
泣き疲れたように重い眠りに落ちていく少年を宥めるように、その背を、髪を撫でながら、腕の中
の少年が思う人を、自分もまた思う。
美しく優しかったあの人を、自分もとても好きだった。
そしてその人を求めて自分の胸で熱い涙を流す少年を思い、逝ってしまった人を責め詰る。

なぜだ。
なぜ逝ってしまったんだ。彼を残して。
いっそ彼を連れてどこへでも逃げ落ちればよかったではないか。
彼の人生を慮ったのか。彼の前途を断ち切るのが忍びなかったというのか。
だが、残された今の彼を見れば、もし配慮というものがあったのならば全て裏目に出ているのでは
ないか、そんな気がする。
なぜ、彼を残して逝ってしまう事ができたんだ。
彼の思慕を断ち切りもせず、彼の心を掴んだまま。


(35)
彼はあなたを恨まないかもしれない。
いえ、恨めないでしょう。けれど僕はあなたを恨めしく思います。
いっそ連れて行ってしまえばよかったんだ。
こんな抜け殻のような彼だけをこの世に残していくくらいならば。
あの日、最後にあなたと言葉を交わした時、僕はあなたの決意をわかったつもりでいた。
けれどこんな結末が待っているなんて思いもしなかった。
なぜ僕はあの時、何も言えなかったのだろう。
それとも。
それともあの時既に、僕の心には闇が巣食い始めていたのだろうか。
全てを悟り、覚悟したようなあなたの笑顔が美しくて、悲しくて、それなのに、そうして流した涙の
中に、ほんの微かでも毒が混じっていはしなかったかと、僕は恐れる。

あなたは知っていましたか。
あなたが慈しみ、あなたを恋い慕うこの少年を、僕がどれ程慕い、恋焦がれていたか。
あなたを羨ましいと、妬ましいと、彼の思慕を一身に受けるあなたに成り代わりたいと、そんな
大それた望みを、僕が捨てきれなかった事を。
それとも。
「良いお友達でいてくださいね。」
そう言ったあなたは、僕の恋情など気付いてもいなかったのでしょうか。
気付いた上で、彼のその後を僕に託してくれたのでは、などと思うのは、きっと僕の思い上がり
なのでしょう。
けれど僕はあなたの言葉をよすがに、彼の手を引きたいと思うのです。
それは、ある意味、あなたの言葉を盾に彼を脅す事になるのかもしれません。
あなたを利用する事になるのかもしれません。
けれど、利用できるものなら何でも、彼をこちらに引き戻す為に使えるものなら何でも、例えそれ
がどんなに下らない戯言であっても、彼を脅し、宥め、あらゆる手を嵩じてでも、彼を取り戻したい
のです。


(36)
「ヒカル、食事を。食べられるか?」
声をかけると、寝台の中に身を起こしていたヒカルはゆっくりと振り返った。
傍らに膳を整えると、彼はゆっくりと手を伸ばして椀をとり、その中の粥を啜った。
その様子にアキラは小さく胸を撫で下ろした。
この屋敷へ来た当初、彼は食物を中々受け付けず、一匙の重湯を流し込んでもむせ返してしまう
程だった。何も映さない虚ろな瞳の彼の身体を抱きかかえながら、ゆっくりと時間をかけて、一匙
ずつ、手ずから食べさせてやった。
けれど今は、彼の手を借りずとも、僅かとはいえ自らの手で食事を取る彼を、彼の身体がここまで
快復してきた事を、喜ぶべきはずなのに一抹の寂しさをどうしようもなく感じてしまって、その思い
を封じ込むように、アキラはヒカルの姿から目をそらした。
やがて椀が置かれる小さな音がして、彼が食べ終えた事を感じたアキラは、式を呼んで膳を片付
けさせ、自分は隣室へと戻った。



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