落日 33 - 43


(33)
佐為。
佐為に会いたい。

どれ程暖かな胸も腕も、どれ程強くきつく抱きしめられても、それでも足りない。
違う。欲しいのはこの腕じゃない。
甘い囁き声も、記憶に残る声と違う。
違う。欲しいのはこんなのじゃない。
佐為。
会いたい。
おまえに会いたい。
他の誰でも、おまえの代わりになんかならない。

佐為。どこにいる?どこに行けばおまえに会える?
なあ?佐為。どこにいるんだよ。返事をしてくれよ。
寒いよ。寒くて凍えそうだよ。
佐為。早く俺を探し出して。
俺を見つけて、そして抱きしめて。


目覚めた時はまた、広い室内に一人取り残されていた。
ふわり、と、懐かしい香りが漂ったような気がして、ヒカルはゆっくりと身体を起こした。
からりと戸を開けて縁側に立ち、更に裸足のまま庭に降り立つ。庭の隅に色とりどりの小菊が咲いて
いた。萩の花はとうに散ってしまったようだが、花びらの名残の残る木の根元には竜胆がまだ咲き
残っていた。
空を見上げると、暮れかけた空に白い三日月が浮かび、月に寄り添うように宵の明星が輝いていた。


(34)
佐為の屋敷を目指して歩き出していた足は、気付いたら違う方向へ向かっていたらしい。
思っていた所と違う場所へ辿り着いてヒカルはなぜここへ来てしまったのだろうかと呆然と門を見
上げた。
なぜ、と思いながら途方にくれてヒカルは辺りを見回し、西の空に浮かぶ白く細い月を見て、ああ、
そうだったのか、と不思議に納得した。
誰もいない事がわかっている佐為の屋敷を訪れるのが恐ろしくて、だから自分は彼に縋ろうとした
のだ。あの白く細い月が、なぜだか彼の事を思い出させて、ここへと足を運ばせたのだ。
けれどしんと静まり返った屋敷を前にして、ヒカルは躊躇した。
「……賀茂…?」
それでも、そっと名前を呼んでみた。
呼べば応えてくれるはずだと言う、何の根拠も無い自信があった。
門扉に手をかけると閂も錠もかけられていない扉はぎいと音をたてて開いた。

けれど彼の呼びかけにも、物音にも、応える者はいない。
屋敷は静まり返り、そこに人の気配はない。

いない?

いない?どこにもいない?
なぜ?どこへ行った?


(35)
偶々留守をしていて今ここにいないのだという事になど、思い当たりもしなかった。
その時、ヒカルの心を占めていたのはただ一つ「いない」と言う事のみで、その理由まで、問う余裕
は彼には無かった。
いない。どこにもいない。誰の気配もしない。

ぞくりと体が震えた。

本当に、彼はいたのだろうか。
彼と過ごした日々は、あれは夢ではなかったか。
彼がいて、あの人がいて、自分は笑っていて、つまらない喧嘩もしたけれど、大変だったけど、死に
そうな思いもしたけれど、でも、楽しかった。
あれは本当にあった事だろうか。
全て自分の見ていた夢ではなかったか。

だって、誰もいない。
佐為もいない。
賀茂もいない。
ここには誰もいない。

そうしたら、俺だって。
本当にここにいるのか?
本当に俺は、生きて、ここにいるのか?
ここにいる俺も幻じゃないのか?


(36)
衣擦れの音が聞こえる。次いで密やかに優雅に笑いさざめく女房たちの声がする。
華やかな衣装。優美な仕草。艶やかな女房や公達。
けれどその中に誰よりも美しく優美なあの人はいなかった。
きらびやかな内裏を、さわさわと衣擦れを立てながらすれ違う貴族達。その中に、見知った顔を見
つけてヒカルは声をかけるが、彼女はヒカルの問いを否定する。
「どなたのことですの、その方は。」
何を言うんだ。あの時、佐為と碁を打っていたじゃないか。
「帝の囲碁指南役、それはあの方でしょう。菅原様、菅原様はご存知ですか?」
「まあ、おかしな事を。もう一人の囲碁指南役ですって?」
「そのような者はおりませぬ。」
「帝の囲碁指南役はこのお方、菅原様お一人でございます。」
「藤原佐為など、」
「そのような名の者は」
存じませぬ、と女房達は声に出さずににっこりと冷たい笑みを返す。
そんな筈は無い、と彼が次々を見覚えのある顔を、ついには見も知らぬ相手を捕まえて何度問お
うと、返ってくる答えは皆同じだった。誰に尋ねても、その名を知る者はいなかった。
ふと眉を曇らせ思いを遠くに馳せるような表情をした者も、次の瞬間、周りの刺すように冷たい視
線を受けて、仮面のような笑みを浮かべて、「そのような者は知りませぬ。」と彼を否定する。
誰もが皆、自分を騙しているのだと思った。
佐為はいたのに。
確かにいたのに。
皆、彼を忘れたのか。
いや、無かった事にしてしまいたいのか。
なぜ。
泣きそうになりながら辺りを見回す。
見知った顔はいないかと。


(37)
遠い廊下の端に、ちらりと切りそろえた黒髪が見え、ヒカルは目を見張った。
次の瞬間、彼を追う。
優雅な貴族たちが眉をひそめて自分を振り返る事など気にしない。
おまえなら。
おまえなら、あんな事は言わないだろう。
知らない、などと言いはしないだろう?

どこにいったんだ。いるんだろう?出て来いよ。
見回すと庭の端にまた、彼の黒髪が翻るのが見えた。
「賀茂!」
大声で呼ばわると、彼は訝しげに振り返る。
「なあ、おまえなら、」
そう言いながらヒカルは彼に駆け寄った。
佐為を知らないなんて言わないだろう?皆が嘘を言うんだ。佐為なんか知らないって、そんなの
はいなかったって、皆で俺を騙そうとしているんだ。
でも、おまえなら、おまえならそんな事は言わないだろう?
「賀茂、」
さらりと髪を揺らして向き直った彼はヒカルの顔を真正面から捕らえる。
けれどヒカルを見た彼はまるで知らぬ人を見るような表情でヒカルを見据えた。
「君は……誰?」


(38)
おまえは誰だ、と問われてヒカルは返すべき言葉を失う。
黒く光る一対の眼差しが自分を覗き込んでいる。闇の底のようなその瞳の色に吸い込まれそうに
なり、視界がぐらりと揺れるのを感じた。風景はそのまま歪んで正常な形を失い、足元の地面は
ずぶずぶと沈みこむ泥地に変わる。闇の淵に吸い込まれる。落ちる。堕ちていく。誰もいない、何
の気配もしない、自らの存在さえ定かでない、光さえも届かない虚空の闇。漆黒の闇の中で平衡
感覚を失い膝の力が抜けていくように感じた。

どさり、という音と、全身を打った鈍い痛みで、ヒカルは覚醒した。目を開けると薄墨色の夕空を黒
い雲が覆い始めていた。そうしている間にも、夕闇は刻一刻と濃くなっていく。地平線の近くに雲に
覆われつつある月影が朧に霞んで見えたが、風が雲を押し流し、見る間にその光を隠してしまった。
湿った風が強さを増しつつある。雨が降るのかもしれない。
嵐の予感に、ヒカルはよろよろと立ち上がる。
ふらつく身体を何とか支えながら、ヒカルは誰もいない屋敷を立ち去ろうとした。

当てもなく悄然と歩いていたヒカルの耳に、何か不穏な音が届く。はっと顔を上げると、細い悲鳴
の後にバタバタと数人が駆けてくる音が聞こえ、ヒカルは咄嗟に腰に手をやった。
けれどそこにはいつも差しているはずの太刀は無く、ヒカルはすっと自分が蒼ざめるのを感じた。
なんと言うことだ。
あの音が、都を襲う盗賊どものものだということは、ほぼ確実だ。
それなのに、なぜ自分は丸腰でこのような所にいるのだ。
俺は今まで何をしていた。俺は一体何物だ?
なぜ、何のために俺はこんな所にいる?


(39)
これは罰だ。
薄れそうになる意識の中でヒカルはそんな事を思った。
都を守る検非違使たるものが逆に盗賊に捕らわれて、陵辱を受けている。
耐え難い屈辱と苦痛。
苦しくて、悔しくて、自分の無力さが許せなくて、それなのに自分の肉体はこんな無骨な男どもの
狼藉にさえ快楽を感じ始めてしまっている。
罰だ。
自分の身を案じてくれた友の思いを踏みにじり、寄せられる同情をよい事に自分の欲しいものだけ
を貪り食った事への、自分の務めを忘れ悲しみだけに溺れていた事への、そして何より守るべき人
を守れなかった事への、守らねばならぬことに気付きもしなかった自分自身への罰だ。
だからきっと、俺はこの屈辱を甘んじて受けねばならないのだ。
これは罰だ。
それなのに、こんなに心もは苦しくて、悔しくて、屈辱と嫌悪に嘔吐しそうなのに、身体はこんな奴ら
の陵辱をさえ悦んでいる。もっと激しくもっと乱暴に、この身が壊れてしまうほどに、意識など、想い
など全て手放してしまえるほどに、もっと強く、もっと激しく、更なる陵辱を望む自分が確かにいる。
自分自身の浅ましさに、欲望の醜さに吐き気がする。
こんな醜く汚れた自分には、こんな夜盗こそが相応しいのかもしれないとさえ思う。


(40)
醜い男の、異臭を放つ醜い一物が眼前に突きつけられる。顎をとらえられて、無理矢理口の中に
それを捩じ込まれた。饐えた臭気に吐き気がこみ上げる。けれど男はそれを許さず、ヒカルの髪を
鷲掴みにして揺さぶる。後ろは別の男のモノに穿たれ、腰を掴まれて揺すぶられる。
前後から責めたてられて、苦しいのに、苦しいはずなのに。
心のどこかが麻痺してしまったようで、もはやそれを嫌だとさえ感じない。
「早く代われよ、今度は俺の番だぜ。」
「待てよ、あと、うっ、くうっ…!」
後ろからヒカルを抱え込んでいた男が急かされて更に激しく腰を動かす。
「ちっ、それじゃ俺はこっちにするぜ。」
また、顎を掴まれて、口の中に押し込められる。反射的に咳き込みそうになった瞬間、後ろから
体内にまた熱い精が注ぎ込まれるのを感じた。
ヒカルの腰を抱えて余韻に酔っていた男は、別の男に強引に引き剥がされ、ずるりと彼が体内
から抜け出るのを感じたと思ったら、次には別の熱く猛り狂う男が押し入ってきた。
「あああっ!」
思わずヒカルの口から悲鳴が漏れる。けれど男はヒカルの様子になど躊躇せず、強引に自身
を捩じ込む。
「す、すげぇ、いい…」


(41)
いつまでこの責め苦が続くのだろう。
男共の何か言い争う声もヒカルの耳には入っていなかった。
がくり、と、ヒカルの頭を捕らえていた男が急に崩れ落ち、支えを失ったヒカルは地面に倒れこ
みそうになる。が、ヒカルの腰を掴んだ手がそれを許さない。
生臭い匂いがむっと立ち込める。何とか手をついて顔を上げると、つい先程までヒカルの口内
を犯していた男の背中が目に入った。
その背がぱっくりと割れて赤い血を流しているのが、闇の中にかろうじて見えた。
同時にヒカルの腰を掴んでいた男もそれに気付き、動きを止める。
「なっ…貴様、何を…」
頭上で刃がきらめくのが目に入るのと、ヒカルの腰を掴んでいた手が離れるのとはほぼ同時
だった。
「ああ…っ…!」
支えを失ってヒカルの身体は今度こそ地面にくず折れた。


(42)
どさり、と重たい身体がヒカルの上に倒れこんできて、ヒカルは呻き声を上げる。
「貴…様、こんな事をしてただで済むと……」
呻き声と共に切れ切れに呪詛の言葉が漏れるのが聞こえる。が、そのような言葉など耳にもい
れず、他の男共を切り倒した血まみれの手がヒカルの髪を掴み、男の身体の下からヒカルを引
きずり出そうとしている。既に朦朧とした意識のヒカルは悲鳴さえ上げられずに、男の手に従うし
かない。
更に彼はヒカルに覆い被さる男を足蹴にして倒し、ヒカルの身体を引き寄せ仰向けにかえすと、
下肢を割り開き、既に怒張しきった己自身をヒカルに勢いよく押し込んだ。
嗄れきったヒカルの喉からまた、掠れた悲鳴が上がり、背が弓なりに反る。が、既に何度も男達
の精を受け入れたヒカルの内部は、強引なその動きを難なく受け入れた。
男は目を閉じ小さく身体を震わせて極上の感覚を味わう。そして、熱く蠢きながら己を締め付け
るその感覚に小さな呻き声を上げた後、男は狂ったように腰を動かし始めた。
もはや意識も切れ切れに、ただ己の内部から与えられる感覚だけがヒカルを支配する。それは
もはや快感を通り越し、苦痛にも近いものであったが、ヒカルの肉体はその感覚から逃げ出す
事はできなかった。
せめて気を失ってしまいたい。意識だけでもここから逃げ出してしまいたい。そんな思いに気が
遠くなりかけていた、その時、恐ろしい悲鳴と共に突如男の動きが止まり、ヒカルの腰を掴んで
いた手に恐ろしいほどの力がこめられた。骨を砕くようなその痛みにヒカルは一瞬、己を取り戻
す。次の瞬間、男の身体はくず折れ、どさりと音をたててヒカルの上に落下した。
どろりと生暖かい液体が、ヒカルを更に汚すように伝い落ちるのを感じながら、ヒカルはようやく
意識を手放した。


(43)
頬にポツリと何か冷たいものが落ちるのを感じて、ヒカルは小さく動いた。
身体の上に何か重いものが覆い被さるように乗っている。それを除けようとして突然、ヒカルはそ
の物体がなんであるか、思い至る。生臭い血の匂いが鼻をつく。己の身体が、もう動く事もない、
命を失った物体の下に閉じ込められていることを感じて、ヒカルは恐怖に身を震わせた。必死に
なって、まだ暖かさを残す重い肉を押しのけその下から這い出ようと、ヒカルがほんの少し身体
を動かすと、体内でずるりと何かが動くのを感じた。
瞬間、ヒカルの身体が硬直した。
「うぁあああああああああああああああああああ!!!」
絶叫と共に、どさりと重い音がして、ヒカルにのしかかっていた肉塊がヒカルの横に落ちた。
立ち上がることはかなわず、ヒカルは四つん這いになってよろよろとそこから逃れようとすた。
数歩動いた後、嘔吐感に襲われ、ヒカルは激しくえずいた。
ゴホゴホと咳き込みながら、ようやく一息ついて、恐る恐る振り返ると、そこにはあの夜盗達がまる
で一塊の小山のように重なり合っていた。男達のいずれかの身体に刀が突き刺さり、闇の中で刃
が鈍い光を放っていた。
つい、先刻まで、自分はあの下にいたのだ。
恐怖と嫌悪感に身体が震えた。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。けれど、そこから動くだ
けの気力は、ヒカルには残されていなかった。
生臭い匂いが鼻をつき、身体全体がベタベタして気持ちが悪かった。夜闇の中ではそれが何かは
わからないが、それがあの男たちから流れ出た血であろう事は、容易に想像できた。そして下肢は
彼らが、そして自分が放った精液で汚れ、体内にも未だそれが残されているのだろう事も。ぐう、と
胃からまたこみ上げるものを吐き出そうとしたが、もはや吐くべきものも何もなく、苦い胃液を吐き
出すだけだった。
雨が次第に激しく降り始め、ヒカルの裸の背を雨粒が叩いた。
僅かに残されたヒカルの体力も体熱も奪っていくようなその雨が、けれど我が身に纏わりつく汚物
を洗い流してくれるのではないかと幽かな期待を持って、激しく打ち付ける雨を感じながら、ヒカル
は気を失った。



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