うたかた 34 - 35
(34)
ヒカルの柔らかい髪に顔を埋めると、甘い香りがした。発育途中の薄い肩は、抱く手に力を込めると壊れてしまいそうで少し怖い。
どうしてだろう。さっきから、やけに自分の鼓動が大きく聞こえる。
「…進藤?」
囁くように呼ぶとヒカルは目を瞑り、もうちょっとだけ、と冴木の胸に頬をすり寄せてきた。
(……困ったな。)
身体の一点に熱が集まってくるこの欲望の感覚は、よく知っている。しかし、その対象がヒカルだということに困惑してしまう。自分は一度だって、ヒカルをそんな目で見たことはなかった。
けれど、後ろめたい気持ちとは裏腹に、ヒカルの肩を抱くその手にはしっかり力が入ったままだ。
(『アイツ』って誰だろう。失恋でもしたのか?じゃあそいつのこと忘れさせるためにも押し倒しちゃおうかな。ほら、据え膳食わぬは男の恥って言うし。抱きついてくるって事は進藤も少しくらい、そうなってもいいやって思ってる可能性も否めないわけで)
都合の良い方向に展開してゆく思考を遮って、冴木のケータイが鳴った。ヒカルがゆっくり体を離すのに心の中で舌打ちして、通話ボタンを押す。付き合って1年になる恋人からだった。
『光二?約束の時間とっくに過ぎてるわよ。今どこにいるの?』
腕時計を見ると、9時を回っていた。恋人との約束をすっかり忘れていたことなんて、今まで無かったと言ってもいいくらいなのに。
(────オレとしたことが…。)
「ごめん、由香里。ちょっと色々あって。」
電話の向こうで小さな溜息が聞こえる。
「…今すぐ行くよ。」
隣でヒカルが少し悲しげな表情をした。
(35)
森下師匠の研究会に来ている子が怪我をして、家まで送っていたことを話すと、由香里は一応納得したようだった。
待ち合わせの場所であるバーのカウンターに座って、グラスを傾ける。きらきらと金色に光るこのカクテルの名前はなんだろう。ヒカルの前髪の色とよく似ている。途端に手のひらにヒカルの髪を撫でる感触がよみがえった。さらさらの柔らかい髪。
(やっぱり進藤の傍にいてやればよかった…。)
冴木が由香里との電話を終えてケータイを閉じた時、ヒカルはいつもの明るい表情に戻っていた。
「彼女から?」
からかうように笑って、横にどけられた碁盤の前に座り、碁石を片付け始める。冴木はそれを手伝いながら、ごめんと言った。
「ごめん、行かなきゃ。」
「なんで謝るんだよ。もうあとは自分で片付けられるから、早く行ってあげて。」
微笑みながら言ったヒカルのあの言葉は本心だったのだろうか。
ドアを開けて部屋を出る時、ヒカルはまだ石を片付けていて後ろ姿しか見えなかった。背中がやけに小さく見えた。
「光二ってば!」
不意に意識が現実へと戻る。目線を右に移すと、由香里が眉間にしわを寄せてこちらを見ていた。
「あ…ごめん。何?」
「何、じゃないわよ。さっきからずっと呼んでるのに。今日のあなた、なんか変よ。」
「…そうかな。」
由香里は冴木を呆れたように見つめ、次の瞬間カウンターに肘をついて冴木に顔を近付けた。
「同じ研究会の子って、女の子でしょ。」
「………。」
予想もしていなかった言葉に冴木が沈黙すると、由香里はそれを肯定として受け止めたようだった。
「やっぱりね。そういうことなんだ。」
「そういうことって何だよ。誤解だ。」
勝手に帰り支度を始める由香里の腕を掴む。
「おい、」
ちゃんと話を聞けよ、と言いかけたが、掴んだ腕をやんわりと外されて、何も口に出せなかった。
「あのね、光二。私は今日2時間も待たされてイライラしてるの。お願いだから、これ以上私を怒らせないで。」
静かな言い方が逆に怖かった。モデルのように鮮やかにターンして出口に向かう由香里を引き留めることは、もう出来なかった。
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