日記 34 - 36
(34)
緒方は自分の迂闊さに、舌打ちをした。近頃、漸く、アキラの気持ちもほぐれてきたようなのに、
これではまた、ダメになるかもしれない。
アキラは、黙り込んでしまった。沈黙が続いて、居心地が悪い。だが、アキラを置いて、
この場を去る気にもなれない。
唐突に、アキラが、緒方へ問いかけてきた。
「緒方さん…リンドウはお好きですか?」
突然の、何の脈絡もない質問に緒方は戸惑った。アキラが重ねて聞いてくる。
「リンドウはお好きですか?」
自分には訳が分からないが、アキラにとっては何か大事な意味があるのだろう。
「ああ…清楚で慎ましい奇麗な花だ。秋の静けさに相応しい。あの瑠璃色が、一層、
秋の情緒を引き立たせる。」
緒方は正直に、花に対して抱いている感想を言った。
「そうですか…進藤に、それを話したことありますか?」
「えぇ!?あいつと花の話を?まさか…!」
ヒカルと花…どう考えても噛み合わない。ヒカルはどう考えても、花より団子だ。見かけより
ずっと繊細な少年だと知ってはいるが、やはり花の美しさを語るタイプではない。
アキラは、ホッとしたような笑顔を見せたが、すぐにまた眉を曇らせた。緒方の視線を
感じたのか、「変なこと聞いてごめんなさい。」と、謝って、皆のいる座敷の方へと消えた。
それにしても、勘の鋭いアキラに、自分の気持ちを悟られないようにするのは一苦労だ。
いや、もう気づかれているのか……。でなければ、あんな顔をしないだろう。
アキラには、ヒカルのことは、「可愛い」「惹かれている」程度しか言っていない。
そのたったの一言、二言で自分の気持ちは、ばれてしまっているのだろう。
正直に言って、ヒカルと二人きりで部屋いるのは苦しい。だが、ヒカルに会えないのはもっと
辛い。来るなら、アキラと二人で来て欲しい。そうすれば、もっと落ち着くことが出来るのに…。
「上手くいかないもんだな…」
ヒカルもアキラも自分のものではないのだから、これくらいのささやかな楽しみは許されると
思っていたが…。
「日記の話も二人だけの内緒話みたいで、嬉しかったんだがな…」
緒方は煙草に火をつけると、ゆっくりと肺に吸い込んだ。
(35)
ヒカルは、和谷達との勉強会を当分休むことにした。アキラへの秘密が、これ以上増えることが
嫌だった。そのうちヒカルも忘れるだろうし、相手も忘れるに違いない。
本当は、ヒカルだって、人の心がそんな単純なものでないことくらい知っている。でも、
その程度のものだと思い込みたいのだ。
ヒカルは、自分の唇に、そっと触れてみた。あの時は怖くて怖くてしょうがなかった。
でも、アキラとの時は自分からしがみついていったような気がする。やっぱり、アキラは
特別なのだ。今のヒカルにとって、アキラだけが特別だった。
時々、ヒカルは、アキラに佐為のことを話してしまいたくなる。でも、話せない。
話したくない。自分でも矛盾していると思う。
ヒカルの心の奥深く、鍵をかけられた場所にいるのが佐為だ。しまい込まれた大切なもの。
時々、取り出してみて、掌でそっと包み込む。そうして、また、鍵をかけるのだ。
―――――大切な大切なヒカルだけの秘密。
思い出の中を漂っていたヒカルの思考は、突然現実に引き戻された。
「ヒカル――――電話よ―――和谷君から。」
ヒカルは顔がこわばるのを感じていた。
(36)
アキラは自分を恥じていた。ヒカルの秘密を暴きたくないなどと言いながら、ヒカルが
リンドウを見ながら、誰に想いを馳せているのかが知りたかった。緒方ではないかと邪推して、
二人の仲を疑った。ヒカルのことになると、冷静ではいられない。自分がいかに、浅ましい人間かと
いうまざまざと見せつけられた様な気がした。
リンドウにしろ、日記にしろ、アキラの知るヒカルとはあまりにもかけ離れていて、
不安になる。ヒカルはアキラを「愛している」と、言ってくれた。あれ以来、一度も
その言葉を口にしてくれたことはないけど、今も気持ちは変わっていないと信じている。
それなのに、どうして不安になる必要があるのだろう。
理屈ではないのだ。―――――心がそう感じてしまうのだ。
ヒカルのことを好きだと言う気持ちを上手く説明できないように、この感情を説明する
ことなんて出来ない。ただ、漠然と不安を感じるのだ。
「進藤を攫って閉じこめてしまいたい……二人きりでずっと一緒に…」
ヒカルを自分だけのものにしたい。他の奴の邪魔が入らないように―――――――
「出来るわけないのに……」
自分もヒカルも碁が打てなければ、死んでしまう。お互いだけで、満足できるわけが
ない…。常に、強い相手との対局を望んでいるのだ。
「――――ラ…アキラ?」
アキラは、ハッとしたように顔を上げた。芦原が心配そうに覗き込んでいた。
「どうしたんだ?ぼんやりして…具合でも悪いのか?」
「い…いえ、何でもないです。」
「そうか…?ならいいけど…」
覇気のないアキラの返事に、芦原は、一瞬、納得しかねるような表情をしたが、黙って頷いた。
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