クチナハ 〜平安陰陽師賀茂明淫妖物語〜 34 - 44
(34)
「じゃ、行って来る!今日中には戻れないと思うけど、その御符しっかり持って
待ってろよな」
庭まで引いて来た馬に跨りながら、開け放たれた室内の明に向かって光が云った。
「うん。・・・すまない、近衛」
今クチナハが大人しくしているのは、御符の効力の他に今が日中だからというせいも
あるだろう。
日が落ちてから彼奴の動きがまた活発になり始めることは予想出来た。
その時光と一緒にいられないのは心細いが――
己のことばかりではいけない。
明はにっこりと微笑んでみせた。
「道中は、気をつけてくれ」
「ウン、それじゃな!あっそうそう、そのお坊さんの名前、何て云うんだ?緒方様」
「吉川上人だ。白犬と一緒に修行してる聖と云えば分かるらしい。
賀茂にはオレがついているから、心置きなく行って来い」
「ウンッ、ありがとう!・・・ございます。じゃーな、賀茂!行って来る!」
軽やかに蹄の音を響かせて光が去って行った後を明がいつまでも眺めていると、
その視界を遮るように、緒方はザッと庭に面した御簾を下ろしてしまった。
あ、と明が小さく声を洩らす。
「何だ?」
「・・・いえ」
「ふん。・・・気に入らんな」
緒方はのしのしと明が半身を起こしている枕元まで来ると、どっかりと腰を下ろした。
「オレや高貴な御方が言い寄るのを剣もほろろに跳ねつけて来たおまえが選んだのが、
あんなガキだったわけか?ええ?」
「・・・・・・」
その通りなのだが、ただそうですと肯定するのも間抜けな気がして、明は黙っていた。
こんな時気の利いた歌の一つも返せるような己であったなら、
人付き合いももっと上手に出来るだろうに。
(35)
「・・・まぁいい」
緒方が扇をパチンと打ち鳴らすと、従者がそっと姿を見せた。
「お呼びでしょうか」
「今夜はここに泊まるから、オレの邸に使いを出してそう伝えろ。
それから、食物を届けさせろ。食欲の出そうなものと、精の付きそうなものと、
それに先日帝より下賜いただいた珍しい唐菓子があったろう。あれもだ」
「はっ」
「他に欲しい物はあるか?」
緒方が振り向いた。明は少し考えてから、傍らで丸くなって羽を休めている
小さな友達を見遣って云った。
「鳥が啄めるような、生の青菜と雑穀の類を少しいただければ」
「・・・だそうだ。新鮮な青菜を一束と、搗いた米を袋に一杯持って来い。
帝に献上しても通るような、質の良い奴をな」
「はっ。かしこまりました」
光が発った上に従者も退がり二人きりになってしまうと、
沈黙と共に今までの疲れがどっと押し寄せてくる。
気づかれないようそっと吐いた溜め息を緒方が耳聡く聞きつけ、苦笑した。
「そう嫌そうにするなよ。・・・嫌がられてもオレは今夜おまえの側を離れるつもりはない。
諦めて今の内に眠っておくなりするんだな。この数日はろくに寝ていないんだろ?」
そういうつもりで溜め息を吐いたのではない、と説明しようとしたが
誰かに気遣われ、見守られているという安心感がこれまで張りつめていたものを
急激に緩ませたのか、瞼が重りをつけたように下がってきた。
夕刻からクチナハがまた活動を始めた場合に備えるためにも、
今はとにかく少しでも寝て体力を回復しておくほうがよい――
緒方に少し申し訳なさを覚えつつ、明は無言で目を閉じぱったりと倒れ臥した。
(36)
馬を飛ばして山あいの小さな村に着いたのは、
秋の日が金色から紅に変わり山の端へと沈んでいこうとする時分だった。
「ふいーっ、何とか日が落ちる前に着いたか。オマエ、よく頑張ってくれたなぁ。
すぐどっかで水飲ませてやるから、もうちょっとだけ頑張ってくれな」
ぶるんと鼻を鳴らす葦毛の馬の首を労うように叩きながら、
光は暮れなずむ風景を見渡した。
小さいが平和そうな村だ。そろそろ一日の仕事が終わる時間なのだろうか、
鋤や鍬を肩に担ぎ牛を引いてゆっくりと田畑から引き揚げてくる者たちがいる。
その間を擦り抜けるように、童たちが何か歌を歌いながら紅い蜻蛉を追って駆けて行く。
都人のなりは珍しいのか、横を通り過ぎようとした年嵩の童の一人がちらっと
馬上の光を見たのと目が合った。
「あ、待ってくれ。ちょっと質問してもいいか?」
一人を呼び止めると全員が集まってきた。
光に声を掛けられた童が、不審と好奇心の入り混じった瞳でぶっきらぼうに訊いた。
「なに?」
「あのさ、この辺りに吉川上人っていう方、いるかな」
「よしかわしょうにん?」
童たちは互いに顔を見合わせ、首を振っている。
「知らねェか?法力の強い、難波から来た坊さんで・・・なんか、
白犬飼ってるとか聞いたんだけど」
「ああ、シロのお坊さん!」
「シロのお坊さんだね」
シロとはその犬の名前だろうか。
優れた法力の有難味より何より、童たちにとってその聖は白犬の飼い主としての
認識が強いらしい。
(37)
「そのお坊さんなら、山にいるよ。時々里に下りてきて、病人を治したり
有難いお経の話をしたりしてくれるんだ。シロはとっても利口な犬だから、
いつも薬籠を運んだりしてお坊さんを手伝ってるんだよ」
「この間なんか、お坊さんが庵に忘れ物したって云ったらシロが独りで山に走ってって、
ちゃんと足りない物取って来たもんな〜。シロはきっと、人間の言葉が解るんだ」
「三郎太の弟が池に落ちて溺れそうになった時、すぐに飛び込んで助けたのもシロだよ。
利口だし強いし、雪みたいに白くて綺麗だし、シロみたいな犬ならオレも欲しいや」
どうやらそのシロは童たちの間で人気者らしい。
光も動物はどちらかと云うと好きなほうだが、今はゆっくり話を聞いている暇がない。
気にかかっていたことを単刀直入に訊いた。
「あのさ、その坊さんって物の怪退治とか出来るか?オレいま訳あって、
そーゆーこと出来る人を探してるんだけど」
童たちは顔を見合わせた。互いに頷きあう。
「ウン、出来るよ。ねぇ」
「なんか具体的にこういう物の怪をやっつけたって話とか、あるのか?」
相手は明ですら敵わなかった強力な妖しなのだ。
いくら法力があると云っても、その辺の雑魚な物の怪にやっと勝てるくらいでは
勝負にならないだろう。
光の真剣な眼差しに只事ではない雰囲気を感じ取ったのか、
年嵩の童が真顔になって口籠もりながら云った。
「この村は平和だから、あまりそういう話は無いけど・・・街で物の怪に憑かれた人が
出ると、良くあのお坊さんが呼ばれるよ。物の怪退治の名人なんだって。
それに難波にいた時、なんか一年以上も街の人たちを苦しめてた凄い妖怪を退治して、
皆を救ったんだって噂だよ。オレが見たわけじゃないけど、
難波から来た行商人のおじさんもそう云ってたから、多分本当だと思う・・・」
「そうか・・・!」
もしそれが事実なら、その聖はクチナハに対抗し得る法力の持ち主かも知れない。
――賀茂!これでオマエ助けられるかもしんねェぞ!
気持ちが逸って、一刻も早くその聖に会いたいと思った。
(38)
「なあ、教えてくれ!その坊さん、山のどの辺りに住んでんだ?馬で行ける道か?」
馬からずり落ちんばかりに身を乗り出して光は問うた。
その勢いに気圧されまいとするように胸を反らして、年嵩の童が答えた。
「だっ、駄目だよ!お坊さんが自分から里に下りて来るまでは、庵の辺りには
近づくなって云われてるんだ。オレが道を教えたって分かったら叱られちゃうよ。
お坊さんが来るのは月に二度だから、お兄ちゃんもこの村に泊まって待つといいよ」
「月に二度って、次に来るのはいつなんだ?」
「今日の昼に来たばっかりだから、今度は月末だよ」
それでは困る。都で明が苦しんでいるのに、そんなに待っているわけにはいかないのだ。
「――」
逡巡するより先に体が動いた。
真っ直ぐに山を睨みながらぽんぽんと馬を促そうとする光を、童が慌てて呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!どこ行くつもりだよ、お兄ちゃん」
「あ、礼云うの忘れてた。ゴメンな。良かったらこれ、みんなで分けて食ってくれ」
光がいつも出勤時の軽食用に持ち歩いている菓子袋を差し出して微笑むと、
童は首を振り困った顔をした。
「いいよ、そんなの。それよりどこ行くんだよ。山には行っちゃいけないって
今云ったばっかだろ?それに日が落ちたら山を歩くのは危ないよ」
「あぁ。でも」
光は肩越しに振り返り、輝く夕陽を今まさに呑み込もうとする山の姿を
真っ直ぐに見据えた。
「そんなこと云っちゃ居られねェんだ。オレの・・・オレの大事な人が都で待ってるから、
一刻も早く坊さん連れて戻ってやらなきゃ」
夕陽に片頬を照らされながら低い声で呟いた光の真剣な横顔に、
童たちのうち何人かの少女がポッと顔を赤らめた。
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「・・・その大事な人って、お兄ちゃんのこいびと?」
年嵩の童の質問に、答えずに光は微笑んだ。
「オマエたちには世話になった。ありがとな。これ、やっぱりやるからみんなで食えよ。
オレのお気に入りのオヤツ!」
ぽーんと弧を描いて投げられた菓子袋を、童の一人が慌てて捉えた。
そのまま馬を嘶かせて山を目指し駆け出した光の背に向かって、年嵩の童が叫んだ。
「――シロのお坊さんの庵は、山の西面の真ん中辺りだよーっ!
川に沿って行ったら紅葉が真っ赤で凄く綺麗な場所があるから、すぐ分かるよ!
――頑張れっ、お兄ちゃん!」
振り返らずに大きく手を振って去っていく光をいつまでも見送る年嵩の童と少女たちの
後ろで、年少の童たちが早速嬉しそうに菓子袋を開け始めた。
(40)
「そら、もっと食え。これはどうだ。美味いぞ」
「はい。いただきます」
夢も見ない深い眠りから明が目を覚ますと、枕元でじっと緒方が見ていた。
ずっと付いていてくれたらしい。
だいぶ長い時間眠ったような気がしたが、まだ日が傾く前だった。
明がこのまま起きると云うと、緒方はまた扇をパチンと鳴らして従者を呼びつけ
食事の支度をさせた。
いま明の枕元には蒔絵の華美な膳が幾つも並べられ、その上に山海の食物が
所狭しと載っている。
明は寝床の上で脇息に凭れたまま、緒方が横から勧める食物を大人しく口に運んでいた。
実を云うと、それほど食欲があったわけではない。
だが来るべきクチナハとの攻防に備えるためにも、体力をつけておかなければ
ならなかった。
――それにこいつがボクの中から出て行ったら、近衛と久しぶりの・・・だし。
事が解決した暁には、思い切り抱いてくれると光は云った。
それなら明としても、思い切り応えねばなるまい。
一月前のように最中に倒れるようなことがないよう今から体調を万全にして、
光のほうが先に音をあげるくらい努めねば――
期待含みの使命感に燃えてせっせと箸を動かす明を、
緒方は横からじっと見つめていた。
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「・・・食っては、くれぬかと思っていた」
唐突に緒方が呟いた。
柚子と青菜を散らした汁粥を啜っていた明は、意味が分からなくて聞き返した。
「は?」
「オレの持って来た物など、要らぬと云われるかと思っていた・・・」
緒方は微笑みのような形に唇を歪めてみせ、穏やかないとおしむような、
けれども少し怯えているような眼差しで明を見た。
「?・・・そんなこと・・・緒方さんが用意してくださった物、
どれもとっても美味しいですよ?」
実際、緒方が調えてくれた食物はどれも善美を尽くした物で、
式神がいなくなってから自作の味気ない料理ばかり食していた明としては
久しぶりにまともな食事を摂ったと実感出来るものだった。
以前緒方に言い寄られたのを拒んで以来、
それまでは程々に親しいと云ってもよいような間柄だった緒方が
めっきり話しかけて来なくなった――どころか必要な時以外避けられているような
感があったので、何とまあ人とは冷たいものだと明は思っていたのだが、
今こうして己の困苦の際に駆けつけてくれたことで、
意外と温かい人柄だったのかもしれないと見直す気持ちにすらなっていたのである。
普段あんなにも自信に満ちた緒方が何故、何に対して怯えたりすると云うのだろう。
――分からない。
己には人の深いところの気持ちはよく分からないのだ。
相手が自らはっきりと、言葉にしてくれるのでなければ。
あのうるさいくらい元気のよい、押し付けがましいくらい引っ付きたがりの、
光そのもののように眩しい近衛のように。
(42)
「・・・・・・」
沈黙が続くと間がもたない。
緒方が何故こんな必死なような目で己を見つめ続けているのか分からない。
途方に暮れて、明は少し微笑んでみせた。
緒方の目が驚きの色に見開かれる。
明は静かに云った。
「緒方さん。今回、こうしてボクが困っている時に貴方が来て下さって・・・
ボク、本当に嬉しいです。感謝しています」
明がにっこり微笑むと、緒方の目がじわっと潤んだ。
――え、・・・
己は今目の前の相手に対して、悪いことでも云っただろうか?
うろたえる明の前で緒方はそっと横を向くと袖で顔を隠し、
振り向いた時には目の潤みも消えて普段の顔に戻っていた。
「緒方さん・・・」
「・・・おまえにそう云って貰えて、ここ暫くのオレの気鬱の種も霧のように
消え失せた心地がする」
「はあ。・・・・・・?」
緒方は暫し天を仰ぎ感慨に耽っているかのように見えたが、
やがて気を取り直したように正面に向き直り、新たな膳を引き寄せた。
「・・・だがまあ今後のことは、とにかくおまえの中のそいつを追い出してからだな・・・。
賀茂。瓜の粕漬けはどうだ」
「あ、はい。いただきます」
緒方の思考の道筋を辿ることは明には出来なかったが、
食事のほうに話題が戻ったようでほっとした。
何事もなかったように肉厚の瓜の粕漬けをパリパリと噛む明を、
緒方はやはり横からじっと、穏やかな顔で見つめていた。
(43)
「そう云えば、緒方さん。その、吉川上人と云う方のことですが」
「うん?ほら、剥けたぞ。食え」
先刻明に礼を云われて以来、緒方は心なしか上機嫌に見える。
目上の人間が手ずから剥いた柑子を口元まで近づけられて、明は恐縮しながら唇を開いた。
慣れない手つきで剥かれた柑子は見た目が少し崩れてしまっているが、
酸味の濃い味が食後の舌に心地よい。
明が目を閉じてその瑞々しい果肉を味わう姿を緒方は微笑みすら浮かべて見守っている。
枕元には式の小鳥がすっかり腹くちくなった様子で丸まっていた。
明が眠っている間、小鳥はいくら促しても餌を啄もうとしなかったが、
主が食事を始めると同時に自らも与えられた物を突付き、相伴に与ったのだった。
「・・・で、その上人がどうしたって?」
「あ、はい。あの・・・その方は強い法力をお持ちだというお話でしたけど、
どの程度のお力なのでしょう」
自惚れるわけではないが、未熟な所もあるとは云え己はやはり
都でも指折りの陰陽師だという自負が明にはある。
町人に憑いた物の怪程度ならそこらの僧侶や陰陽師でも払えるが、
己が抗し得なかった相手に打ち勝てるほどの術者がそう容易く見つかるとは
思えなかった。
明の問いに対し、緒方は柑子の汁で濡れた指を拭いながら云った。
「確証のない事だからさっきは云わなかったんだが・・・
実を云うと、その上人に関してはもう一つ別口の噂があるんだ。
何でもそいつが難波にいた時、強力な妖怪を退治して人々を救ったとか」
「妖怪・・・妖しですか」
「ああ。難波の街に夜になると現れて、恐ろしい声で咆哮しながら夜通し通りを
駆け回るので、人々は恐怖で夜間に出歩くことは勿論、眠ることも出来なかったとか。
そんなことが一年以上も続いたある日、件の聖が現れてその妖しを退治してくれたので
人々は大いに感謝したと――まあ、そんな話だ」
(44)
「それが本当なら、頼みに思って良さそうですが・・・確証がないというのは?」
「ああ、実はその話がな、同じ坊主の話かどうか分からんのだ。
吉川上人というのは白犬を連れているとさっき云っただろう?
だが、その難波で妖怪退治をした聖というのはまったくの独り身で、犬なんぞ飼って
いなかったと云うのさ。・・・別人の噂が混同されているのかもしれん」
「そうですか・・・」
もとより市井の聖などに過大な期待をかけていたわけではない。
その吉川上人なる人物を探すことが事件の解決と結びつかなかったとしても、
それは仕方のないことだと明は思っていた。
寧ろ、聖の召喚が期待外れに終わった場合に光がどれほど落胆し自責するかと思うと
そちらのほうが気がかりだった。
――近衛はもう、目的の地に着いただろうか。
近衛が発った時己は臥せっていて、旅支度をさせる所まで気が回らなかったけれども、
食料などはきちんと持って出たのだろうか。
道中、盗賊や獣に出くわして難儀したりはしていないだろうか。
かつて都の四神をすら御神刀で圧倒したことがある光の腕なら
多少の困難はものともしないだろうが、
せめてお守り代わりに己の書いた御符を一枚持たせてやればよかった。
己という人間は、何故こう肝心な時に抜けているのか――
今頃は己を想いながら遠い洛外の山中に分け入っているであろう光を思うと、
気遣わしさと愛しさが沁むように込み上げて、
明は思わず両手を胸前で握り締め祈るように目を閉じた。
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