裏階段 アキラ編 35 - 36
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先生があるタイトルの防衛戦で四国に滞在している間に、九州に住んでいた先生の囲碁界の恩師の
訃報が届き、急きょ明子夫人が喪服などを用意して先生と共にそちらに向かう事になった。
連絡を受けて塔矢家に出向き、準備の手伝いをし空港まで夫人を送るために車に荷物を運び込んだ。
その間も電話が何度か鳴り、夫人はその対応に追われていた。
そうしているうちにアキラが学校から帰り、家の中の慌ただしさに驚いた顔をして廊下に佇んでいた。
「やはりアキラさんも連れていこうかしら。」
手早く夫人はアキラに事情を説明した。東京に住んでいる親類にアキラを預けようか迷っているようだった。
「お母さん、ボク、…緒方さんのところに行きたい。」
アキラがそう母親に話すのを聞いて驚き、アキラを見た。アキラもこちらを見つめていた。
「何言っているの。緒方さんもお仕事があるのよ。我儘はだめよ。」
夫人にそう言われて強く手を握られるとアキラは唇を噛んで俯いてしまった。
その姿は年相応に小さくて儚げに見えた。アキラが普段あまり交流のない親類の家に泊まる事に
不安を感じているのは見て取れた。
「オレはかまいませんよ。」
思わずそう口にしていた。するとアキラ以上に明子夫人がオレの言葉に安堵した表情を見せた。
「そお?そう言ってくれるなら…申し訳ないけど、緒方さん、アキラをお願いします。」
彼女らしいといえばそういう対応だった。
どうでもいい事だが、明子夫人のオレの呼び方は「セイジくん」から「緒方さん」に変わっていた。
門下生に対する態度の事で何か周囲の者に言われたらしかった。
ただその時はとにかく予定の飛行機に夫人を押し込む事で精一杯だった。
夫人を見送って塔矢家に戻ると、アキラは既に自分で自分の荷物を小さなバッグに詰めて
家の戸締まりを済ませ、玄関先にちょこんと座って待っていた。
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この家で留守番する事も考えないでもなかったが、出版部に依頼されている原稿もあった。
観念して車から呼ぶとアキラは嬉しそうな笑顔を見せて駆け寄り、助手席に座りシートベルトを締めた。
「…この車に替えてからは初めてだったか?」
「はい。」
エンジンをかけて車を発進させ滑らかに加速させていく。
アキラが部屋に来るという事で浮かれていたのはオレの方かも知れない。
マンションに着くと夕食に寿司の出前をとり、アキラに風呂の使い方を教えて自分はパソコンに向かった。
一応ジェットバスになっているから浸かっていれば適当に綺麗になる。
浴室で何かアキラが歌を歌っているのが聞こえた。
一人取り残された事をあまり寂しがってはいないようでホッとした。
「…してやられたかな。」
それでも自然笑みが漏れそうになるのはこっちも同じだった。―不幸のあった恩師の御家族には
申し訳ないが、妙に距離感を持とうとしても無駄のような気がしてきた。
「お風呂、ありがとうございました。」
アキラが濡れた髪にタオルを巻いてパジャマ姿で脱衣所から出て来た。
「アキラくん、来なさい。」
パソコンの中の原稿の画面を切り替え、アキラをモニター前に座らせた。
画面には黒を四子置いた碁の盤面を出してあった。それに対し白が一子だけ置いてある。
「君の番だ。」
すぐにアキラは緊張した面持ちで画面に見入り、考え込んだ。
そのアキラに代わって椅子の背後からアキラの髪をタオルで拭き取ってやった。
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