落日 35 - 36
(35)
偶々留守をしていて今ここにいないのだという事になど、思い当たりもしなかった。
その時、ヒカルの心を占めていたのはただ一つ「いない」と言う事のみで、その理由まで、問う余裕
は彼には無かった。
いない。どこにもいない。誰の気配もしない。
ぞくりと体が震えた。
本当に、彼はいたのだろうか。
彼と過ごした日々は、あれは夢ではなかったか。
彼がいて、あの人がいて、自分は笑っていて、つまらない喧嘩もしたけれど、大変だったけど、死に
そうな思いもしたけれど、でも、楽しかった。
あれは本当にあった事だろうか。
全て自分の見ていた夢ではなかったか。
だって、誰もいない。
佐為もいない。
賀茂もいない。
ここには誰もいない。
そうしたら、俺だって。
本当にここにいるのか?
本当に俺は、生きて、ここにいるのか?
ここにいる俺も幻じゃないのか?
(36)
衣擦れの音が聞こえる。次いで密やかに優雅に笑いさざめく女房たちの声がする。
華やかな衣装。優美な仕草。艶やかな女房や公達。
けれどその中に誰よりも美しく優美なあの人はいなかった。
きらびやかな内裏を、さわさわと衣擦れを立てながらすれ違う貴族達。その中に、見知った顔を見
つけてヒカルは声をかけるが、彼女はヒカルの問いを否定する。
「どなたのことですの、その方は。」
何を言うんだ。あの時、佐為と碁を打っていたじゃないか。
「帝の囲碁指南役、それはあの方でしょう。菅原様、菅原様はご存知ですか?」
「まあ、おかしな事を。もう一人の囲碁指南役ですって?」
「そのような者はおりませぬ。」
「帝の囲碁指南役はこのお方、菅原様お一人でございます。」
「藤原佐為など、」
「そのような名の者は」
存じませぬ、と女房達は声に出さずににっこりと冷たい笑みを返す。
そんな筈は無い、と彼が次々を見覚えのある顔を、ついには見も知らぬ相手を捕まえて何度問お
うと、返ってくる答えは皆同じだった。誰に尋ねても、その名を知る者はいなかった。
ふと眉を曇らせ思いを遠くに馳せるような表情をした者も、次の瞬間、周りの刺すように冷たい視
線を受けて、仮面のような笑みを浮かべて、「そのような者は知りませぬ。」と彼を否定する。
誰もが皆、自分を騙しているのだと思った。
佐為はいたのに。
確かにいたのに。
皆、彼を忘れたのか。
いや、無かった事にしてしまいたいのか。
なぜ。
泣きそうになりながら辺りを見回す。
見知った顔はいないかと。
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