平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 35 - 38


(35)
小振りな椿にも似たその花は山茶花だ。
「気の早いのがもうひとつ咲いてるなー」
和谷が言うのを受けて、少しぼんやりとその花を眺めていた伊角がその一輪に
手をのばす。
皆が、あっと、止める間もなく、伊角はそれをたおって手にしていた。
そして、その手を迷うことなくヒカルの耳元に差し伸べ、そこにその可憐な桃色
の花を挿す。
「うん、近衛にはやっぱりこの色が似合うな」
ヒカルの胸がどきりと大きな音をたてた。
「伊角さん……」
和谷が、弱りきった声で頭を抱えていた。
「そういうのは、女に言ってやれよー」
門脇も呆れたように、伊角とヒカルを見比べている。
しかし、ヒカルはそれを気にするどころではなかった。
わずかに顔を上げると、伊角と真正面から視線があってしまった。
伊角は切れ長の目を少し細めて、嬉しそうにヒカルを見ている。
なぜか体が動かない。
その、少し表情を緩めただけの、穏やかで優しい笑顔が、ヒカルの心にふわりと
触れてきた気がした。
自然と頬が熱くなるのがわかった。


(36)
山茶花が手折られた日から数日後のこと 。
その夕方、近衛ヒカルは、いつもの碁会所の掃除を終えてから伊角の屋敷を訪れた。
方違えだ。
明日は伊角の屋敷からそのまま内裏に向かうのは方角が悪いから、今夜のうちに
知人の家に赴き、翌朝、そこから出仕する。
一行が辿り着いたその伊角の知人の家では、酒宴の用意がされていた。
内裏で次世代をになう有力貴族の筆頭といわれる伊角に、今のうちに自分を売り
込んでおこうというのが透けて見える程、豪華な夜食がふるまわれた。
その宴会の喧騒に背を向けて、ヒカルは一人で、庭に面した簀子にこしかけ、夜空を
眺める。曇っていて、星はない。わずかに雲が黄色い光に染まっている場所があって、
それで月の位置がわかるのみだ。
「お前は飲まないのか」
後ろから声をかけてきたのは伊角だった。
「警護役が酔っぱらっちゃまずいだろ?」
室内を見ると、皆はすっかり酔いつぶれて、宴会の片づけもそのままにごろ寝して
しまっている。
「うちの随身達だって飲んだんだから、飲めばよかったのに」
言いながら、伊角はヒカルの背に、しなだれかかってきた。
「伊角さん、酔っぱらってるでしょ?」
背中に感じる伊角の重さを、どこか気持ち良く感じながら、ヒカルは言う。伊角の
腕がヒカルの前に回されて、背中から抱きしめられた。男の胸は温かかった。振り
払おうとは思わなかった。伊角の唇が耳の後ろに寄せられ、耳たぶを噛まれた。
酒臭い息が、ヒカルの頬にかかった。
そのうち、伊角が体重をかけるように、だんだんとヒカルの背中に体を押し付けて
きて、ヒカルは体を二つ折りにしたように前かがみになる。
「い、伊角さん、苦しいってば!」
体をひねって、背中の伊角の方を向く。


(37)
そのまま床に背を預けて楽な姿勢になったら、自然にヒカルは伊角に押し倒されて
いるような体勢になってしまった。ヒカルの上の伊角の顔の輪郭は、わずかな月明かり
に照らされて、闇に黄色く浮かび上がっている。頬が朱に染まって、完全に酔って
いるのがわかった。
伊角が、犬が甘えるような仕草でヒカルの喉元に鼻先を寄せてきた。
酒気を帯びた呼吸が、肌の間近に感じられてぞくぞくする。
「お前は、皐月の季節の若草みたいな匂いがするんだな」
「伊角さんは、酒臭いね」
「近衛……」
ヒカルの首の付け根から、伊角は顔をあげた。
「好きだ」
ヒカルは目を見開いた。
「初めてお前を抱いた時から、忘れられなかった」
骨張った手が、ヒカルの上体を掻き抱く。
「お前が欲しいんだ」
数日前、山茶花の枝をヒカルの頭に挿した伊角を前にした時のように、心臓が早鐘を
打つのを感じた。
確かに端正な作りの顔ではあるけれど、どこまでも女性的だった佐為とはまったく
似ていない伊角なのに、どうしてこんなに胸が高鳴るのか、ヒカルにはわから
なかった。
伊角の顔がゆっくりと落ちて来た。
ヒカルが茫然と、その男らしく整った眉やら、目元やらを眺めているうちに、
唇と唇が触れ合った。ヒカルは、その口付けを目を開けたまま受け止めた。
伊角の酔いに火照って少し乾いた唇が、何度も強く弱く角度を変えては、ヒカルの
柔らかい唇を吸い上げた。
目を閉じて、ヒカルがわずかに唇を開く。


(38)
伊角の舌がそっと忍び込んできた。ヒカルの歯列をくぐり、さらに奥まで。
最初は、お互いの舌先をくすぐり合うような軽い接触だったが、やがて、本格的に
舌が絡まり始める。
伊角の口付けは、お世辞にも上手いと言えるようなものではなかった。これでは、
ヒカルとが初めてだといっていたあかりの方が上手いのではないだろうか? 
しかし、そんな不器用さが、かえってヒカルには新鮮だった。胸に温かい感情が
込み上げてくる。
(かわいいなぁ、伊角さん)
ヒカルは、自分の体の奥底の何かに、火を付けられた気がした。下半身が昂ぶって、
熱を持ち始めたのを感じた。
強く絡めてくるヒカルの舌に怯えたように引いてしまった伊角の舌を追って、今度は
ヒカルの方が、伊角の口の中に進入する。
酔いのせいで熱くなっている伊角の口腔内を、ヒカルの舌がさぐって愛撫した。
体がざわざわと騒ぎだしていた。
佐為を失ってから、久しく忘れていた官能が肢体の奥で燃え立ち始めたのがわかった。
伊角の手のひらが、熱を持って、布越しにヒカルの背筋を撫で回している。それ
だけで、快楽に餓えていた体は煽られる。
こうなっては、自分の体がもう止められないことは、ヒカル自身が一番よく知って
いた。
伊角が、ヒカルの狩衣の留め紐を、酔いと緊張に震える手で解いた。
そのまま、衣摺れの音とともに、単衣の前ががはだけられる。
胸元に、じかに伊角の唇が触れると、そこから深い痺れが波紋のように広がった。
ヒカルは、自分の喉が興奮に熱くなるのを自覚しながら手を伸ばし、自ら伊角の
狩衣の前を解いた。単衣も襟を割って引っ張ると、伊角の広い肩があらわになった。
「伊角さ…」
つぶやくヒカルの唇を、伊角が口付けで塞いだ。開き直ったのか、さっきと比べて
随分と積極的にヒカルの口腔内を貪ってくる。
直接重ねられた胸の肌ざわりが、情欲に油をそそいだ。
体をまさぐってくる手の感触がとても気持ちがいい。
気がつけば、伊角の愛撫に甘い吐息で応えていた。



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