落日 36
(36)
衣擦れの音が聞こえる。次いで密やかに優雅に笑いさざめく女房たちの声がする。
華やかな衣装。優美な仕草。艶やかな女房や公達。
けれどその中に誰よりも美しく優美なあの人はいなかった。
きらびやかな内裏を、さわさわと衣擦れを立てながらすれ違う貴族達。その中に、見知った顔を見
つけてヒカルは声をかけるが、彼女はヒカルの問いを否定する。
「どなたのことですの、その方は。」
何を言うんだ。あの時、佐為と碁を打っていたじゃないか。
「帝の囲碁指南役、それはあの方でしょう。菅原様、菅原様はご存知ですか?」
「まあ、おかしな事を。もう一人の囲碁指南役ですって?」
「そのような者はおりませぬ。」
「帝の囲碁指南役はこのお方、菅原様お一人でございます。」
「藤原佐為など、」
「そのような名の者は」
存じませぬ、と女房達は声に出さずににっこりと冷たい笑みを返す。
そんな筈は無い、と彼が次々を見覚えのある顔を、ついには見も知らぬ相手を捕まえて何度問お
うと、返ってくる答えは皆同じだった。誰に尋ねても、その名を知る者はいなかった。
ふと眉を曇らせ思いを遠くに馳せるような表情をした者も、次の瞬間、周りの刺すように冷たい視
線を受けて、仮面のような笑みを浮かべて、「そのような者は知りませぬ。」と彼を否定する。
誰もが皆、自分を騙しているのだと思った。
佐為はいたのに。
確かにいたのに。
皆、彼を忘れたのか。
いや、無かった事にしてしまいたいのか。
なぜ。
泣きそうになりながら辺りを見回す。
見知った顔はいないかと。
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