クチナハ 〜平安陰陽師賀茂明淫妖物語〜 36 - 40
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馬を飛ばして山あいの小さな村に着いたのは、
秋の日が金色から紅に変わり山の端へと沈んでいこうとする時分だった。
「ふいーっ、何とか日が落ちる前に着いたか。オマエ、よく頑張ってくれたなぁ。
すぐどっかで水飲ませてやるから、もうちょっとだけ頑張ってくれな」
ぶるんと鼻を鳴らす葦毛の馬の首を労うように叩きながら、
光は暮れなずむ風景を見渡した。
小さいが平和そうな村だ。そろそろ一日の仕事が終わる時間なのだろうか、
鋤や鍬を肩に担ぎ牛を引いてゆっくりと田畑から引き揚げてくる者たちがいる。
その間を擦り抜けるように、童たちが何か歌を歌いながら紅い蜻蛉を追って駆けて行く。
都人のなりは珍しいのか、横を通り過ぎようとした年嵩の童の一人がちらっと
馬上の光を見たのと目が合った。
「あ、待ってくれ。ちょっと質問してもいいか?」
一人を呼び止めると全員が集まってきた。
光に声を掛けられた童が、不審と好奇心の入り混じった瞳でぶっきらぼうに訊いた。
「なに?」
「あのさ、この辺りに吉川上人っていう方、いるかな」
「よしかわしょうにん?」
童たちは互いに顔を見合わせ、首を振っている。
「知らねェか?法力の強い、難波から来た坊さんで・・・なんか、
白犬飼ってるとか聞いたんだけど」
「ああ、シロのお坊さん!」
「シロのお坊さんだね」
シロとはその犬の名前だろうか。
優れた法力の有難味より何より、童たちにとってその聖は白犬の飼い主としての
認識が強いらしい。
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「そのお坊さんなら、山にいるよ。時々里に下りてきて、病人を治したり
有難いお経の話をしたりしてくれるんだ。シロはとっても利口な犬だから、
いつも薬籠を運んだりしてお坊さんを手伝ってるんだよ」
「この間なんか、お坊さんが庵に忘れ物したって云ったらシロが独りで山に走ってって、
ちゃんと足りない物取って来たもんな〜。シロはきっと、人間の言葉が解るんだ」
「三郎太の弟が池に落ちて溺れそうになった時、すぐに飛び込んで助けたのもシロだよ。
利口だし強いし、雪みたいに白くて綺麗だし、シロみたいな犬ならオレも欲しいや」
どうやらそのシロは童たちの間で人気者らしい。
光も動物はどちらかと云うと好きなほうだが、今はゆっくり話を聞いている暇がない。
気にかかっていたことを単刀直入に訊いた。
「あのさ、その坊さんって物の怪退治とか出来るか?オレいま訳あって、
そーゆーこと出来る人を探してるんだけど」
童たちは顔を見合わせた。互いに頷きあう。
「ウン、出来るよ。ねぇ」
「なんか具体的にこういう物の怪をやっつけたって話とか、あるのか?」
相手は明ですら敵わなかった強力な妖しなのだ。
いくら法力があると云っても、その辺の雑魚な物の怪にやっと勝てるくらいでは
勝負にならないだろう。
光の真剣な眼差しに只事ではない雰囲気を感じ取ったのか、
年嵩の童が真顔になって口籠もりながら云った。
「この村は平和だから、あまりそういう話は無いけど・・・街で物の怪に憑かれた人が
出ると、良くあのお坊さんが呼ばれるよ。物の怪退治の名人なんだって。
それに難波にいた時、なんか一年以上も街の人たちを苦しめてた凄い妖怪を退治して、
皆を救ったんだって噂だよ。オレが見たわけじゃないけど、
難波から来た行商人のおじさんもそう云ってたから、多分本当だと思う・・・」
「そうか・・・!」
もしそれが事実なら、その聖はクチナハに対抗し得る法力の持ち主かも知れない。
――賀茂!これでオマエ助けられるかもしんねェぞ!
気持ちが逸って、一刻も早くその聖に会いたいと思った。
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「なあ、教えてくれ!その坊さん、山のどの辺りに住んでんだ?馬で行ける道か?」
馬からずり落ちんばかりに身を乗り出して光は問うた。
その勢いに気圧されまいとするように胸を反らして、年嵩の童が答えた。
「だっ、駄目だよ!お坊さんが自分から里に下りて来るまでは、庵の辺りには
近づくなって云われてるんだ。オレが道を教えたって分かったら叱られちゃうよ。
お坊さんが来るのは月に二度だから、お兄ちゃんもこの村に泊まって待つといいよ」
「月に二度って、次に来るのはいつなんだ?」
「今日の昼に来たばっかりだから、今度は月末だよ」
それでは困る。都で明が苦しんでいるのに、そんなに待っているわけにはいかないのだ。
「――」
逡巡するより先に体が動いた。
真っ直ぐに山を睨みながらぽんぽんと馬を促そうとする光を、童が慌てて呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!どこ行くつもりだよ、お兄ちゃん」
「あ、礼云うの忘れてた。ゴメンな。良かったらこれ、みんなで分けて食ってくれ」
光がいつも出勤時の軽食用に持ち歩いている菓子袋を差し出して微笑むと、
童は首を振り困った顔をした。
「いいよ、そんなの。それよりどこ行くんだよ。山には行っちゃいけないって
今云ったばっかだろ?それに日が落ちたら山を歩くのは危ないよ」
「あぁ。でも」
光は肩越しに振り返り、輝く夕陽を今まさに呑み込もうとする山の姿を
真っ直ぐに見据えた。
「そんなこと云っちゃ居られねェんだ。オレの・・・オレの大事な人が都で待ってるから、
一刻も早く坊さん連れて戻ってやらなきゃ」
夕陽に片頬を照らされながら低い声で呟いた光の真剣な横顔に、
童たちのうち何人かの少女がポッと顔を赤らめた。
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「・・・その大事な人って、お兄ちゃんのこいびと?」
年嵩の童の質問に、答えずに光は微笑んだ。
「オマエたちには世話になった。ありがとな。これ、やっぱりやるからみんなで食えよ。
オレのお気に入りのオヤツ!」
ぽーんと弧を描いて投げられた菓子袋を、童の一人が慌てて捉えた。
そのまま馬を嘶かせて山を目指し駆け出した光の背に向かって、年嵩の童が叫んだ。
「――シロのお坊さんの庵は、山の西面の真ん中辺りだよーっ!
川に沿って行ったら紅葉が真っ赤で凄く綺麗な場所があるから、すぐ分かるよ!
――頑張れっ、お兄ちゃん!」
振り返らずに大きく手を振って去っていく光をいつまでも見送る年嵩の童と少女たちの
後ろで、年少の童たちが早速嬉しそうに菓子袋を開け始めた。
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「そら、もっと食え。これはどうだ。美味いぞ」
「はい。いただきます」
夢も見ない深い眠りから明が目を覚ますと、枕元でじっと緒方が見ていた。
ずっと付いていてくれたらしい。
だいぶ長い時間眠ったような気がしたが、まだ日が傾く前だった。
明がこのまま起きると云うと、緒方はまた扇をパチンと鳴らして従者を呼びつけ
食事の支度をさせた。
いま明の枕元には蒔絵の華美な膳が幾つも並べられ、その上に山海の食物が
所狭しと載っている。
明は寝床の上で脇息に凭れたまま、緒方が横から勧める食物を大人しく口に運んでいた。
実を云うと、それほど食欲があったわけではない。
だが来るべきクチナハとの攻防に備えるためにも、体力をつけておかなければ
ならなかった。
――それにこいつがボクの中から出て行ったら、近衛と久しぶりの・・・だし。
事が解決した暁には、思い切り抱いてくれると光は云った。
それなら明としても、思い切り応えねばなるまい。
一月前のように最中に倒れるようなことがないよう今から体調を万全にして、
光のほうが先に音をあげるくらい努めねば――
期待含みの使命感に燃えてせっせと箸を動かす明を、
緒方は横からじっと見つめていた。
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