無題 第2部 36 - 40
(36)
アキラが次に目を開けた時、そこには彼の目を覗き込む緒方がいた。
「あなたは…だれ…?」
今までに知っていたのは、眼鏡の奥から覗く皮肉そうな眼。
幼い自分を抱き上げてくれた時の優しい慈しむような瞳。
けれど、では、これはいったい誰だ?
見た事もない、熱っぽい瞳で自分を見詰めている、この瞳はいったい誰のものなのだ?
知らない。こんな人は知らない。
アキラはそう思いながら手を伸ばして薄茶色の瞳を縁取る睫毛にそっと触れた。
「知らなかった…あなたの、瞳の色…」
初めて間近に見たその瞳の色は、不思議な色をしていた。
ゆっくりとその瞳が近づいてくる。
その圧力に耐え切れずアキラが目を閉じると、そのまま彼の唇が柔らかくアキラの唇を
覆った。アキラの手が彼の背にまわされ、その身体にぎゅっとしがみついた。
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ミネラルウォーターの小瓶を二つもって寝室に入ると、緒方のバスローブを羽織ったアキラ
は広いベッドの端にぼんやりと腰掛けていた。
入ってきた緒方を見て、アキラはほんの少しだけ、だが確かに、不快げに眉をひそめた。
その意味が分からずに小瓶をサイドテーブルに置いて、彼の横に腰を下ろし、尋ねるように
アキラを見ると、その手が伸びて緒方の眼鏡を外した。
「かけないで。」
アキラの黒い瞳が、緒方の薄い色の瞳を直に覗き込む。
「ボクの前では…ボクといる時は外していて。」
そして緒方から視線を逸らさないまま、手に持った眼鏡をサイドテーブルに置いた。
そして、もう一度、その手を緒方に伸ばし、その輪郭を確認するように頬に触れながら、言った。
「ボクと…二人でいる時には外していて。」
「おまえが、そう言うのなら。」
その言葉に、アキラは僅かに安心したように微笑んで、そのまま緒方の顔を引き寄せ、その唇
にそっと触れた。
緒方はそのままアキラの身体を押し倒し、深い、静かなキスを与えた。
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顔を離すと、先程と同じような静かな瞳で、アキラは緒方を見詰めていた。
その瞳にどんな意味がこめられているのか、緒方が計りきれずにいるまま、アキラはゆっくりと
瞼を閉じた。それから、するりと緒方の腕の中から抜け出し、呆然としたままの緒方を置いて、
部屋を出て行った。
「…アキラ…!」
彼の心の変化を追い切れずに、緒方はただ、彼の姿を追う。
だが彼は緒方の呼びかけには応えず、脱ぎ散らかされた衣服の中から自分の下着を拾い上げ、
そのまま洗面所へと向かった。
ドアを開け放したまま、アキラは、まだ乾ききってはいないであろう制服を、黙々と身につけていく。
「アキラ…」
きっちりと詰め襟の上まで止めあげて、やっと彼は緒方を振り返った。
「アキラ…!」
もう一度、先程より強く彼の名を呼び、両腕を掴まえて、その真意を尋ねるように顔を覗き込んだ。
だが、アキラは答えず、ただ緒方の顔を見上げて、首を振った。
見上げるアキラの目に涙が浮かんでいた。
「また…来ても、いいですか…?」
否、などとは答えられる筈がなかった。
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タクシーでアキラはアパートに帰り着いた。
カギを回す音が深夜の静けさに響く。
アキラは出来るだけ音を立てないようにそっとドアをあけ、そして誰もいない暗い部屋に入った。
カギをかけ、電気を点けないまま奥の部屋に行く。
ベッドに腰を下ろすと、アキラは大きな息をつき、そしてベッドに横たわった。
一人になりたくないと思ってあの人の部屋に行ったはずなのに、なぜまたここに帰ってきて
しまったんだろう。
そして、帰ってきてこんなにほっとしてるのはどうしてなんだろう。
静かな暗い部屋の中で、アキラは不思議に落ち着いている自分をいぶかしく思った。
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だってここは、ボク一人の部屋だから。
だれもいない。誰の気配も、思い出もない。ボクだけの空間。
何も、誰も、ここには立ち入らせない、ボクだけの領域。
だからかもしれない。
家を出たのは―家にいるとつらいのは、一人でいると思い出してしまうからだ。
そして、いる筈の人の気配を探してしまうからだ。
あそこはボクが一人でいるべき場所じゃない。あそこは一人では寂しすぎる。
ここなら、ここはボクは最初から一人だったから、それでボクはゆっくり呼吸できる。
何もない殺風景な部屋だけど、ボクはここが好きだ。
必要なものは少しだけでいい。
寝るためのベッドと、碁盤と碁石。ただそれだけ。
それ以上は何も要らない。
誰も要らない。
だからボクは、寂しいなんて、思わない。
誰かに傍にいて欲しいなんて、思わない…。
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