裏階段 アキラ編 36 - 40


(36)
この家で留守番する事も考えないでもなかったが、出版部に依頼されている原稿もあった。
観念して車から呼ぶとアキラは嬉しそうな笑顔を見せて駆け寄り、助手席に座りシートベルトを締めた。
「…この車に替えてからは初めてだったか?」
「はい。」
エンジンをかけて車を発進させ滑らかに加速させていく。
アキラが部屋に来るという事で浮かれていたのはオレの方かも知れない。
マンションに着くと夕食に寿司の出前をとり、アキラに風呂の使い方を教えて自分はパソコンに向かった。
一応ジェットバスになっているから浸かっていれば適当に綺麗になる。
浴室で何かアキラが歌を歌っているのが聞こえた。
一人取り残された事をあまり寂しがってはいないようでホッとした。
「…してやられたかな。」
それでも自然笑みが漏れそうになるのはこっちも同じだった。―不幸のあった恩師の御家族には
申し訳ないが、妙に距離感を持とうとしても無駄のような気がしてきた。
「お風呂、ありがとうございました。」
アキラが濡れた髪にタオルを巻いてパジャマ姿で脱衣所から出て来た。
「アキラくん、来なさい。」
パソコンの中の原稿の画面を切り替え、アキラをモニター前に座らせた。
画面には黒を四子置いた碁の盤面を出してあった。それに対し白が一子だけ置いてある。
「君の番だ。」
すぐにアキラは緊張した面持ちで画面に見入り、考え込んだ。
そのアキラに代わって椅子の背後からアキラの髪をタオルで拭き取ってやった。


(37)
「あっ」
不馴れなマウスの操作での最初の一手を置く位置をアキラは過ったようだった。
「落ち着いて。すぐに慣れる。」
画面からアキラが置いた石を消してやろうとした。
「いえ、このままでいいです。一度置いた以上は…」
「そうはいかん。」
「本当にいいんです!」
「おいおい、意地になるんじゃない。」
それでもマウスの上のオレの手の動きをアキラが制しようとして掴み、その時画面から黒石が
消える代りに妙な位置に白石が置かれてしまった。一瞬アキラとオレとで顔を見合わせる。
「いいよ。このままで。」
オレがわざとらしくため息をつきながらそう言ってやるとアキラは赤くなってオレの手を離した。
「…最初からやり直すかい?」
そう尋ねるとアキラはオレの顔を画面を交互に見遣ってから黙ったまま頷き、
それを見て思わず吹き出しながら画面を最初に戻した。
少しムッとしたように唇を尖らせてアキラはもう一度モニターに向き直る。
今度は慎重にマウスを操作し、こちらの一手一手に時間をかけて応手を選ぶ。
ちらりと見たアキラの横顔は幼いが真剣そのものだった。
研究会でも何度となくアキラの相手をしているが、その時と同様に
アキラに対し手心を加える事をしなかった。
既にアマチュアの大会では塔矢アキラの名は有名になっていた。
かなりなセンスを持った少年がアキラとのあまりの実力差に早々に自分の碁の才能に見切りをつけて
将棋に転向してしまった話が当時は話題となっていた。


(38)
「…来年からはアキラはアマの大会に出さないようにしようと思う。」
世間からすれば先生のその決断は親バカの極みに受け取られかねないものだったが、
実際大会で数手も打たぬうちにアキラの相手の子供が投了してしまう事が重なっては無理もなかった。
“戦う碁”と“楽しむ碁”、両方を相手と共有出来る程にはまだアキラも相手も「子供」すぎた。
プロ棋士になる事を視野に入れつつある、と周囲の者誰もがそう感じていたし、
アキラの中に自覚があったのだろう。
大会の規模の大小に関係なく「対局」と名のつくものにアキラは容赦がなかった。
何より先生は“生け簀”で釣りをさせるような行為でアキラの中の勝負に対する貪欲さが
磨耗するのを怖れたのだ。
大海の荒波の中でただ一人で魔物のような巨大魚と格闘するような、そういう対局を
重ねる事になる将来を見据えての判断であった。
…そして事実、アキラはその魔物と出会い長く戦いの波間に漂うこととなる。

ふと気がつくと、アキラの頭がくらりと前に傾き、ハッと驚いたようにしてまた画面に
見入ろうとしていた。
時計を見ると10時をまわったところだった。うっかりしていた。
ただでさえ今日はアキラにとって気疲れする事が多かっただろう。
「すまなかった、アキラくん。もう寝なさい。」
「でも…」
そう言ってなおマウスを操作しようとするアキラの手に殆ど力はなかった。その指や指の叉が
ほんのりと赤らんでいる。幼い時からアキラの体が眠がっている時に表れる状態だ。


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髪が乾ききっているか確かめて椅子とアキラの背の隙間と膝下に腕を差し入れ、アキラの体を
抱き上げると寝室のベッドに運んだ。毛布と掛け布団の中に押し込んで肩までしっかり包んでやる。
「…緒方さんは?」
「オレはまだ仕事がある。」
「…そうなんだ。ごめんなさい。」
「謝る事はない。おやすみ。」
「…おやすみなさい…。」
やはり疲れていたのだろう。ストンとアキラは眠りに落ちて寝息を立て始めた。
「なかなか大物だな。」
枕が変わると寝られないというタイプにはならないだろう。地方対局でホテル泊まりも
多いプロ棋士の条件の一つはクリアだなと思った。

深夜を過ぎて出版部に出す原稿が出来上がり、眼鏡をテーブルに置いて伸びをする。
相変わらず眼鏡はかけたりかけなかったりだったが、さすがにパソコンで文章を綴るのには要した。
明朝はアキラを学校まで送らなければいけない。ラジオのタイマーを設定し、
アキラが夜中にトイレに起きる可能性も考えて部屋の照明は落としたまま消さないで、
そのままソファーに横になった。あらかじめ置いてあった毛布を胸から下に掛けた。
頭の下で両腕を組むようにして、眠りに落ちた。いや、落ち掛かった。
その時寝室のドアが開く気配がした。アキラが目を覚ましたらしい。
やはり寝かす前に無理にでもトイレを済ませさせるべきだったなと、半分眠りかかった
頭の片隅で後悔した。


(40)
こちらが眠っているのを気遣ってアキラは足音を忍ばせてソファーの脇を通り過ぎ、
トイレに入っていった。水を流す音の後、同じような足取りでキッチンに行き、
冷蔵庫を開けてコップに飲み物を注いでいるようだった。
何でも欲しい物は遠慮なくとるように言ってあり、カラフルなラベルのリキュールや
カクテルの小瓶の類をジュースと間違えないようにと教えておいた。
まあそのうち、アキラとここで酒を飲み交わし朝まで囲碁論を戦わす時も来るだろう。
そんな事を考えていて、ふと水を飲み終わったはずのアキラの気配がなくなった事に気付いた。
寝室に戻ったと思ったが、そうではなかった。
すぐ近くにアキラがいる、と感じた。
より一層足音を忍ばせ、アキラはソファーの脇に寄って来ている。
こちらは目を閉じたまま寝たふりをしていた。
アキラは傍に立ってこちらをじっと見つめているようだった。
そうしてしばらく経って、顔を寄せてくる気配があった。頬にほんの微かだがアキラの呼気を感じた。
次の瞬間柔らかく温かいものがオレの唇に触れた。
一瞬の出来事だった。
そしてふわりと風が起き、アキラの気配消えて寝室のドアが閉まる音がした。
少し時間が経ってから目を開け、ソファーの上で体を起こした。
首を振って髪をかきあげて、息をつく。
―あいつは今、何をした…?
キッチンを見るとアキラが使ったコップが水滴をつけて残っていた。
夢ではなさそうだった。



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