裏階段 ヒカル編 36 - 40
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「…恐るべき子供…か」
無意識にそう呟き、棋院会館のエレベータに乗る。
そのドアが開いた時、ロビーで魚の映像に何やらぶつぶつ話し掛ける奇妙な行動を
とっている少年を見かけた。
進藤だった。
「何をひとり言言ってるんだ?」
ふいに声をかけられ、「あっ」と無防備な声を上げて進藤が振り返る。ふっくらと頬が丸く
産毛が光り、体格に合わないぶかぶかの学生服に着られていて、かなり幼く感じた。
アキラの事を考えていた後だけによけいそう感じたのかもしれなかったが。
院生の友人に誘われて研究会に来たようだが、研究会自体の事もよく知らないと言う。
「塔矢名人の研究会に来ないか」
試しにそう尋ねると、瞬時に進藤の表情が締まった。
「アイツも―塔矢もいるの?」
彼とまともに言葉を交わすのはこれが初めてだった。
目上のものに敬意もへったくれもない物言いで、本当にアキラと比べてもどうしようもない
子供だった。だが不思議に腹は立たなかった。
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そのどうしようもないガキが、いっぱしにあの塔矢アキラを意識している。
それが妙におかしくて思わず吹き出しそうになる。
いや、一番おかしかったのは自分自身だ。進藤を院生としてこちらの世界に引き込んだ
だけではモノ足りず、どうにかして早くアキラと対面させ同じ場に居合わせようと
大人げなくけしかけている。
その場を眺めて楽しもうという好奇心を剥き出しにしている。
「アキラくんもいる。お互い刺激になるだろ?」
「行かない」
即座にきっぱりと進藤にほお、と内心感心した。
昔から相変わらず塔矢門下の研究会に参加したいという要望は多い。
碁を打つ者なら、ましてや院生であればそこに参加する価値がわからないはずがない。
子供とは言えさすがにそう易々とこちらが吹く笛に踊ってくれそうになかった。
吹く曲は選ばなければと言うべきか。
「塔矢と勉強なんかしたくねーよ!オレはアイツと戦いたいんだ」「戦いたい―か」
アキラ側の人間に対し無謀な意地を堂々と言ってのける態度が可愛らしかった。
「ではそれをオレも待つことにしよう」
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塔矢アキラが何者なのかまるでわかっていない。
だがそんな無垢さが今のアキラに対して最も有効な武器であるのかもしれない。
汚れのない魂を持った者が手にした曇りのない剣によってならばアキラの肉体を
斬りつけ血を流させる事が出来るかもしれない。
彼なら再び孤高の聖域の城からアキラを引きずり出してくれるだろう。
ふと見ると、目の前に別の院生の少年が怪訝そうな表情でこちらを見ていた。
師弟関係でも同門でもない高段位の棋士と一院生とがフランクに言葉を交わしているのが
奇異に映ったのだろう。
視線を向けるとその少年はハッとしたように慌ててオレに頭を下げた。
確か以前、囲碁のアマチュア大会でsaiの存在を教えてくれた子供だっただろうか。
だとすれば彼もまた、アキラと進藤を繋ぐ重要な役割を担った者だ。
親しい間柄らしく進藤のもとに駆け寄り2人で言葉を交わしている。
「オイオイ、緒方先生と何話していたんだよ」
「研究会に誘われた」
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「なんで緒方先生がおまえなんかを誘うんだ!?」
彼にそう問われても進藤にしてみれば、何故そんなふうに聞かれるのかと言いたいところだろう。
進藤の中では自分こそアキラのライバルたりえるという確信があるのだから。
「…若獅子戦が3ケ月後か。キミとアキラくんの対局はそこで見られるかもしれんな。」
「若獅子戦?」
オレから向けられたその言葉の意味がわからず首を傾げる進藤に、院生仲間の少年が手短く
若獅子戦とは院生とプロ棋士との対局の機会である事を教える。
「キミは出られるんだろう?」
何を必死になっているのだろうと思いながら浮かぶままに進藤を煽る言葉を吐く。
小雀に奏でてやる楽曲を選んでいる。
「出るさ!もちろん!」
瞳と同様に清んだ良い声が追いかけて来た。
「キミとアキラくんがぶつかるようなら、その時はオレも見にいくかな」
進藤に返したその言葉は本気だった。進藤にはもっと本気になってもらわねばならなかった。
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塔矢邸での研究会の集まりの皆がいる前でさりげなくその話をアキラにした。
「アキラくん、この前進藤に会ったらね、彼若獅子戦に出ると言っていたよ」
「進藤って?」
耳慣れぬ名前に脇に居た芦原が身を乗り出して聞き返してきた。当のアキラ本人は視線すら
動かさず無関心を装っている。むしろその方が不自然なのだが。
その少し以前にこの研究会で最強棋士に関する話題が出た。
囲碁の歴史上一番強い棋士―本因坊秀策。
その本因坊秀策が現代の定石を覚えたとしたら―そんな存在がいるとしたら…。
そう例えられていたsaiという存在。
もちろんオレの中でそのsaiと進藤は結び付いてはいなかったが、アキラは両者をどこかで並ばせ
意識している。進藤に対する執着心はいくらも色褪せてはいないようだった。
「楽しみじゃないかい?」
再びその進藤と同じ空間に立つ感想をぜひ聞かせてもらいたかった。自分でも今のオレの顔は
さぞかし意地が悪いものだろうと思う。
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