誘惑 第一部 36 - 40
(36)
突然、嵐のように、アキラの脳裏に緒方に関する事が思い出される。
アキラ、と自分を呼ぶ、よく響く、甘いバリトン。
ガラスのような薄茶色の瞳。優しい、慈しむような眼差し。
「ボクはあの人が好きだった。本当に、大好きだった。
それでも、ボクはもうあの人には会えないんだ。ボクが…ボクが、進藤を選んでしまったから。」
封印したはずの記憶が甦る。
自分を抱いた厚い胸板と逞しい腕。自分を貫いた熱い塊。
荒れ狂う嵐の海のように自分を翻弄した悦楽の波。
タバコの匂いの混じる、刺激的なキスの味。汗の匂い。
広いベッドのシーツの肌触り。床にあたった体の痛み。
あの時響いていたマーラーの壮大な響きまで。
ヒカルを選んだときに全て捨て去ったもの。
懐かしむ事さえ許されない思い出。
気付かぬうちにアキラの頬を、涙がとめどなく流れ落ちていた。
どうしてボクはあの手を放してしまったんだろう。
どうしてボクは、もう、あの人に会えないんだろう。
会いたい。
あの人に会いたい。
そして、優しく名前を呼んで欲しい。
愛してる、アキラ、と。
(37)
「塔矢…?」
急に黙り込んでしまったアキラの肩に、和谷がそっと手をかけようとした。
「触るな…!」
和谷をギッと睨みかえし、手を振り払った。
「触わるな。ボクに、触わるな。
進藤以外に、ボクに触れていいのは緒方さんだけだ。
キミなんか、キミなんかに、誰が。ボクの事を何も知らないくせに…!」
緒方さん、緒方さん、緒方さん。
アキラは心の中で、何度も彼の名を呼んだ。
何も、知らなければよかった。
何も、起こらなければよかったのに。
帰りたい。あの頃に。
何も知らなかった、あの頃に。
最初に、ボクの唇に最初に触れたのも、ボクの中に押し入ったのも、緒方さんだった。
「塔矢、おい、大丈夫か…?」
「はなせよ!触るなって言ったろう!!」
流れる涙もそのままに、和谷を睨みつけて、アキラが叫んだ。
「キミなんか顔も見たくもない。声を聞くのもイヤだ。出てけよ!消えろよ、ボクの目の前から!!
キミなんか、大っ嫌いだ!!」
―これは、誰だ?泣いて…る?あの、塔矢アキラが?
なんだ?さっきのあのふてぶてしい態度は?そしてこれは…
涙をぬぐおうとも止めようともしないアキラを、和谷は呆然として見ていた。
「ああ…」
突然思い出したように、小さな声でアキラが呟く。
「そうか、ここはキミの部屋だったんだよね。ごめんよ。」
そう言ってアキラは脱ぎ散らかされた衣服を拾って、何事もなかったかのように身に着けはじた。
アキラの動きも表情も、彼の中の激情を押し殺して、平静を装っていた。
ただ一つ、止められずに流れ落ちる涙以外は。
(38)
気が付いたらマンションの前に立っていた。エントランスに入り、指に馴染んだ部屋番号をプッシュ
する。受話器の向こうで懐かしい声がする。モニター越しに、彼が驚いているのがわかる。何も言
わなくてもいい。こうして待っていれば、彼がここにきてきっと抱きしめてくれる。
小さな画面に真っ直ぐこちらを見つめているアキラが映っている。頬を伝う涙を止めようともせずに。
緒方は手近に合ったジャケットを引っ掛けて、部屋を出て、エレベーターを目指した。
既視感に目眩がする。突然、過去に引き戻されたようだ。まだ、あの日々が続いているような、アキラ
を失ったのが悪い夢に過ぎなかったような、そんな幻惑に囚われる。それともアキラとの間にあった
事全てが悪い夢に過ぎなかったのか?
エレベーターを降り、廊下を走り、自動ドアの前に立ち、開きかけた扉から彼の名を呼ぶ。
「アキラ…!」
呼び声にアキラがゆっくりと振り返る。駆け寄って、その身体をしっかりと抱きしめた。アキラの腕が
緒方の背中に回され、ジャケットを掴む。
「…会いたかったんだ。」
ぽつりとアキラが言う。
「会いたかったんだ、あなたに。もうずっと。」
緒方の胸を押し戻すように、顔を上げて、アキラが言う。
「アキラ…、」
「もう、会っちゃいけないって、思ってたから。
忘れなきゃいけないって、もうここへ来ちゃいけないって、でも、」
アキラの頬をまた、涙が伝う。
「緒方さん、」
緒方のシャツを掴んで、胸に顔を埋めて、泣きながら彼の名を呼んだ。
「緒方さん……、緒方さん、緒方さん、」
「どうしたんだ、アキラ、子供みたいだぞ…?」
緒方は泣きじゃくるアキラを胸に抱いて、優しく声をかけながら頭を撫でてやった。
そしてそれはやがて小さなすすり泣きに変わっていった。
(39)
「おいで、」
アキラをソファに座らせ、それから緒方はマグカップを手に戻ってきて、それをアキラに渡した。
アキラは渡されたカップを両手で抱えて、ホットミルクをすする。微かに甘いラムの香り。
「少しは落ち着いたか。」
「…うん…」
アキラはそう応えて、手にもったカップをじっと見つめていた。それから目を閉じてそれを二口
三口飲み、カップをテーブルに置く。そしてゆっくりと顔を上げて、緒方を見た。
「緒方さん、」
どうした、というように、緒方がアキラを見る。
「CD、聴いてもいいですか…?」
「…構わんが、何を?」
「マーラー」
緒方の眉がぴくっと上がった。
マーラーの何を、と問う必要はない。
一体何があったのか。なぜ、突然、こんなに泣きながら、ここにやってきたのか。
そしてなぜ、なぜ今この曲なのか。
真っ直ぐに緒方を見据えるアキラに、緒方は小さく首を振って、オーディオラックに並んだCD
の、一番端に置かれていたディスクを手渡した。
―― 『MAHLER・SYMPHONIE NO.5』
自分にとってはそれは苦い思い出だが、アキラにとってはその曲はどんな意味を持つのか。
わからない。
無言でアキラにディスクを手渡し、彼をそこに一人残したまま、緒方は部屋を出て行った。
冒頭のトランペットの音が小さく聞こえる。運命が扉を叩く音。それは一体どんな運命なのだ?
不吉な予感をはらんだまま独奏トランペットが高らかにファンファーレを鳴り響かせる。オーケス
トラの大音響をドア越しに耳にしながら、緒方は手早く服を着替える。重く、引きずるような葬列
の音楽を背に、緒方はマンションのドアを静かに閉めた。
(40)
はす向かいのビルの1階のコーヒーショップに入り、エスプレッソを注文する。
オレは変わっていないな、と緒方はひとりごちた。
なぜオレは、あいつに問う事が出来ないのだろう。
なぜだ、と。なぜおまえはここに来るのだ、と。昔も今も。
アキラの意図を問う事も探る事も出来ず、ただ彼の望むままに受け入れる事しか出来ない。
だが、オレがどんなに図太い神経の持ち主でも、あの部屋であいつとあの曲を聞くなんて、
そんな事は耐えられない。
耳について残る葬送のリズムを頭の中で反芻しながら、冷えかけたコーヒーを口に運ぶ。
自分の罪を思い起こさせる暗いリズム。そうして罪の意識に苛まれながらも、記憶の中の
アキラに、苦痛に顔を歪め涙を止める術も持たないアキラの白い顔に、確かに欲情してい
る自分を感じる。最低だ。
頭を振って、呼び起こしてしまった映像を振り捨てようとする。だが一度表層に浮かび上
がってしまったアキラの白い裸体はますます明確になって緒方を苦しめる。
なぜだ、アキラ。なぜ、今更。
今更、オレの所へ来て泣く。そして今更、あの曲を聞きたがる。
急に、アキラを独り部屋に残してきたことが悔やまれた。
緒方は席を立って、歩き出した。立ち上がるまでは躊躇いがあったが、歩き始めたらそれ
は次第に足早になり、ほとんど走っていると言っていい速度で、緒方は部屋へ向かった。
あの時の、あの後悔は何だ。
今度こそ、やり直さなければならない。
今度こそ、全てを受け止めてやらなければならない。
今度こそ、オレは逃げずにあいつと立ち向かわなければならない。
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