誘惑 第三部 36 - 40
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「進藤、」
ベッドを離れかけたヒカルを引き止めるようにアキラが声をかけた。
「どこにも行かない?ボクが寝ている間にどこかにいってしまったりしない?」
急に声の調子が変わって、思わずヒカルはアキラに振り向いた。
「だって目が覚めてまた一人だったら、昨日の事も今日の事も夢だったんじゃないかと思ってしまう。」
こいつはわざとやってるんだろうか。無意識だったら相当だ。
さっきまでオレをからかってふざけてたくせに、急にこんな風に、縋りつくみたいに見て、オレが守って
やらなきゃいけないみたいに思わせるなんて、ずるい。卑怯だ。反則だ。
「行かないから…!」
そしてアキラから目をそらして、身体を無理矢理寝かしつけ、乱暴に布団をかけた。
「どこにも行かないから、ずっとついててやるから、だからさっさと寝ろ。寝てくれ!」
「ありがとう。」
言われてつい、その顔を見てしまって、ヒカルはまた真っ赤になった。
頼むから、そんなに優しく笑わないでくれ。襲いたくなっちまうじゃねぇか。大人しく寝ててくれよ。
「バカ、」
照れ隠しにそう言っておでこをピンと弾いて、ベッドを離れた。
何か時間つぶしでも、と思って本棚を物色していたヒカルの背中にアキラがもう一度声をかけた。
「でもね、進藤。子供は残せなくても、キミとボクとで残せるものがあるんだよ。」
それが何かは聞かなくてもわかった。
だから、「わかってるよ。」と、おざなりに答えた。
わかったからさっさと寝ろ。ちゃんと休んで、身体を元に戻せ。
でなきゃ、体調万全でなかったら、残せるような棋譜なんて、作れるはずがないだろう?
そして二度とオレに体力負けで負けたような棋譜なんか見せるな。馬鹿野郎。
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今日こそは帰る、と言ったヒカルに、やはりアキラは不満そうな顔をした。
「だって、オレ明日は手合いがあるしさ、それにいい加減帰らなくちゃ。」
「手合い?そうなんだ。じゃあ、ここから一緒に行けばいいじゃないか。」
「え、おまえ、明日、対局あるの?」
「うん、大手合い。相手は…誰だったかなあ。そこら辺に通知あると思うけど。」
「そうなんだ。何か、久しぶりだな。一緒の日に対局があるのって。」
「そうだっけ?」
「……そうだよ。」
「……そうだね。」
「だからさ、明日は棋院で会えるから、いいだろ?」
じっとヒカルを見ていたアキラが、ふわっと笑って言った。
「いいんだよ、わがままを言ってみたかっただけだから。」
無防備な笑顔を見せられてヒカルは言葉に詰まった。
なんだなんだそのカワイイ顔は!新手の引止め作戦かよ!ああああ、そんな顔見せられたら
帰れなくなるじゃないか!そりゃあオレだってずっと一緒にいたいけど、でもそんなわけ、いか
ないだろ。もう着替えないし、お母さんだっていい加減おかしく思うだろうし。
「どうしたの、進藤?」
ヒカルの目を覗き込むようにしてアキラが言う。
その視線を断ち切れるほどに、ヒカルの精神力は強くはなかった。
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ああ、結局やっちまったよ…、と軽い自己嫌悪を感じながら、ヒカルはもう一度シャワーを浴びた。
無造作に服を着込み、髪を拭きながらベッドに戻る。
そっとベッドの端に腰掛けると、丸くなってまどろんでいたアキラがヒカルの気配を感じて目を開け、
ヒカルを見て微笑んだ。
「帰るよ。」
「うん。」
幸福そうな微笑みに、本当は引き止めて欲しいと思ってるのは自分の方なのかもしれない、と思う。
手を伸ばして、髪を軽く梳くと、心地良さげにアキラが目を閉じる。手を放せなくなってしまって、その
ままアキラの頭を撫で続けていると、アキラがクスクスと笑い出した。
「どうした?やっぱり泊まってく?」
からかうような声でそう言って、目を開けてヒカルを見上げる。言われてヒカルがムッとしたのを面白
がるように笑っている。
「…帰るっ!」
ヒカルは憮然として立ち上がり、乱暴にリュックをしょって玄関へと向かう。
「あ、」
そして、ふと心配になってもう一度アキラに確認するように訊ねた。
「明日、大丈夫だよな?」
「大丈夫だよ。」
「棋院まで、一人で来れるか?」
「…当たり前だろ。」
「そうかよ?甘ったれの塔矢アキラくんはお迎えがなきゃ行けないかなーっと思ったんだけどな。」
「じゃあキミが迎えにきてくれるのか?へーえ、嬉しいなあ。」
「甘ったれんなよ!バカヤローッ!」
寝ているアキラに向かって、あっかんべーをして、ヒカルはアキラの部屋を出て行った。
後ろでアキラが可笑しそうに笑っていた。
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朝、少し心配だったが、電話をするのはやめた。
随分と早めに棋院に着いてしまって、そわそわしながらアキラが来るのを待った。
周囲のざわめきを感じて振り返るとアキラがいた。アキラはちらっとヒカルを横目で見て小さく笑った。
ドキン、と、心臓が一瞬止まりそうになった。
別れてから半日も経っていないのに、つい昨日もずっと抱き合っていたのに、それでもその姿を見た
だけで胸が高鳴るのを抑えきれない。
今日の塔矢は、でも、昨日の塔矢とは別人みたいだ。
昨日の塔矢は、甘えて、拗ねて、帰っちゃやだとか言ってたくせに、今日のあいつと来たら。
余裕のある落ち着いた動作。自分の登場によってもたらされたざわめきや、ちらちらと盗み見る視線
をものともしない、周りを圧倒するようなエネルギーに溢れている。
誰かが彼のそんな姿を見て、ふう、と溜息をついた。
ヒカルはそんな様子を内心誇らしげに見ていた。
ああ、やっぱり、塔矢は綺麗だ。本当に綺麗だ。あいつはなんて綺麗なんだろう。あんまり綺麗で、輝
かしくて、眩しくて、見るたびオレは見惚れてしまう。でも、あいつが綺麗なのは、カオとか、見た目とか
だけじゃなく、あいつの真剣さが、あいつの持ってるエネルギーが強くて、眩しいからだ。あいつの周り
は、空気だって普通とは違うみたいだ。どんなに沢山の人がいたって、あいつ一人が光り輝いている
ように見えるから、オレはいつだってすぐにあいつを見つけられる。
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アキラはヒカルの方には来ずに、そのまま対局室に入り、自分の場所に座って静かに目を瞑った。
対局室のアキラを、皆、遠巻きにしながらも気にしていた。
考えてみれば当然だ。誰の目にも一段と存在感を増したように見えるアキラは、本来ならばとっくに
この場には相応しくない。もっと上のステージで輝くべき筈の人間だ。
対局相手が気の毒だ、と、誰もが思った。今日は確実に白星をあげられないのだから。
その相手を羨ましいと思ったのは、ヒカルただ一人だったかもしれない。
彼の正面に座って対局する相手を、彼の真剣な視線を、真剣な一手一手を受ける相手を、ヒカル
は妬ましいとまで思った。大半は純粋に棋士として、自分こそが彼と対局したいと思ったからだが、
どこかに小さく、彼に恋する気持ちの中で、彼の全てを独占したいという思いがあるのをヒカルは
知っていた。
オレ、もしかしてこれから、あいつと対局するヤツに一々シットしちゃうのかな。それってマズイよな。
でも、オレとの対局がやっぱり一番だって言って欲しい。
ああ、早く、塔矢と真剣勝負の場で対局したい。
でもそのためには、あいつがたまたまここに来るのを待つんじゃなく、あいつのいる所まで、早く勝ち
登っていかなくちゃ。
でも、まずは一歩一歩だ。あいつのいる所に上がっていくためには、どんな対局だって落とせない。
油断していい相手なんていない。
ヒカルは目を閉じて深呼吸し、それからぱっと目を開いて目の前の盤面を静かに見つめた。
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