平安幻想異聞録-異聞- 36 - 40
(36)
秘め事を終えたあとの部屋は、一時の熱気が去り、不思議な静けさに
つつまれていた。
ヒカルは佐為の胸に顔をうずめてまどろんでいる。
佐為は、そのヒカルの体のあちこちにまだ残る、数日前の暴行のあとを
指でゆっくりたどっていた。
ヒカルの体が、情事の名残だけではない熱さをもっていた。
熱がぶりかえしたのかもしれない。
まだ、傷も癒えぬうちに無理をさせてしまったのではないか?
そんな心配をしながら、指をヒカルの下半身にもすべらせる。
股の内側のひときわ長い切り傷が熱を持ってミミズ腫れのようになっていた。
太ももを手が這う感覚にヒカルが小さくうめいて目を開けた。
「すいません。イヤでしたか?」
「ん〜〜、平気」
そう言って、ヒカルはギュッと佐為に抱きつく。
その声は、情事のなごりで少しかすれていた。
ヒカルが、自分の胸に顔をうずめたまま、ぶつぶつと何かつぶやくのを
耳にして、佐為は何かと問いかけた。
「んー、いい匂いだなぁと思って」
「匂い?」
「うん、佐為って、こういう事した後なのに、あんま汗の匂いってしないのなぁ。
いい匂いがする。何?この匂い」
「あぁ、着物に香を焚きしめてありましたから、その移り香でしょう。
菊の香りですよ」
「菊?」
「えぇ、もう菊の花が咲き始める季節ですからね」
「へぇ〜〜、菊かぁ」
「そうです。季節ごとに焚きしめる香の種類を変えるのですよ」
「ふうん、でも、オレ、この匂い好き。おまえ、ずっとこの香にしろよ」
「そういうわけには…」
「だめ。オレ、これがいい」
そういうなり、腕の中、寝息を立て始めてしまったヒカルに、
佐為は苦笑するしかなかった。
――藤原佐為が、翌年の花見の会にも、季節外れな菊の香をまとって現れ、
参列する貴族たちにけげんな顔をされるのは、また少し別の話になる。
(37)
それから2日がたって、ようやくヒカルもまともに身動きができるようになり、
二人は久方ぶりに揃って内裏に参上した。
――あの竹林の夜からは8日がたっていた。
内裏に行く前に、ヒカルは検非違使庁に顔を出し、長く休んでしまったことを
皆にわびる。
「なんか拾い食いしたんじゃないか」
「まじめに仕事しないから、ご先祖さまが怒ってバチをあてたんだ」
ヒカルの休みの理由を腹痛と信じて、好き勝手言う検非違使仲間達に
「オレ、一応病み上がりなのに、みんなでいいようにこづき回すんだよ」
と文句をいいながら、ヒカルは楽しそうだ。
ヒカルの屈託のない笑顔に、佐為もほっと気が緩むのを感じた。
(さて、後は…)
ヒカルは知らなかったが、佐為はその前の日の昼に賀茂アキラと会っていた。
内裏に行けば、座間と菅原がいる。
彼らとヒカルを遭わせたくなかった。
賀茂アキラが緒方などを通して、さりげなく訊きだした座間と菅原の
その日の動向と予定を頭に入れたうえで、彼らとなるべく鉢合わせすることの
ないように、佐為はアキラと相談して、その日の自分の行動予定を
組み立てていたのだ。
そして、それは今のところすべて上手く運んでいるように思えた。
夕刻まではつつがなく過ぎ、囲碁指南の仕事も無事に終わり、
さぁ退出、と、佐為が心の中で胸を撫で下ろしながら
ヒカルとともに内裏から大内裏へと渡る途中、ふたりは
予想外にたくさんの女房達に声をかけられることになった。
(38)
いつも佐為の方にばかり話しかけている女房達が、今日はヒカルにも口々に
声をかけ、いたわりの様子を見せる。
いったいどういう風の吹き回しかとおもって見れば、やはり、
ヒカルと佐為の顔を見に現れたあかりの君の言葉がなぞ解きをしてくれた。
「佐為の君が風邪を召して休んでいらっしゃるというのは表向きのこと。
実はヒカルにつきっきりで看病してたからお休みなのだって事は、
宮中の女房なら、もう誰もが知ってるうわさ話ですもの。
で、憧れの佐為の君に、内裏に参上いただくには、ヒカルの健康維持が、
そりゃあ大事なわけよ。みんな佐為様目当てにヒカルの事、心配してるわけ!」
「えーー、なんだよ、それ〜〜」
あかりの無下な言葉に、ヒカルは文句を言った。
が、佐為とともに歩き出そうとしたヒカルを、あかりの君が引き止めて、
そのヒカルの袖のなかに、宮中でも上級の女官しか口にに出来ないような菓子や
食べ物の包みを押し込んだところを見ると、何やら彼女なりに、
ヒカルに対しては思うところはあるようだ。
佐為はそんなふたりを微笑ましく見ながらも、ヒカルをせかす。
まさか、内裏から大内裏への道中で、こんなにあちこち道草を食う羽目に
なるとは思わなかった。
予定の退出の刻限を少々過ぎてしまっている。
佐為がヒカルを伴い、急ぎ足に大内裏から出ようとした時だった。
渡り廊下の向こうから、数人のとりまきを連れて歩いてきたのは
座間長房と菅原顕忠。
「これはこれは、佐為の君。 風邪でふせっておられたらしいが、
もうお加減はよいのですかな?」
すぐ後ろで、ヒカルが体を固くこわばらせるのがわかった。
(39)
(できるだけ、彼らに会わないように計画したつもりでしたが、無駄でしたか)
佐為は胸の奥で深く溜め息をついた。
「お風邪をお召しになったとか? われわれは、かの『京の妖し』をめぐって、
共に妖怪退治をした仲ではありませぬか。お教えくだされば見舞いに参ったものを」
「これこれ、顕忠、あまり押しつけがましいのも、佐為殿が困るだろう。
なにしろ、佐為殿が参内を休んでいた理由は風邪ではなく、お気に入りの
検非違使の看病のためだと、もっぱらの噂……」
そう言って、座間と菅原の視線がヒカルに注がれた。
ヒカルが体を固くする。
わかってしまった。
座間と菅原は今、あの夜のことを思い出している。
自分たちの頭の中で、今、ヒカルの服をはぎ、思う様犯しているのだ。
ヒカルはこぶしを固く握りしめた。
手のひらに汗がじっとりとにじんでいるのが自分でわかった。
だけど、意地でも目線はそらさない。
目をそらしたら、負けだと思った。
(なんと、強い…)
その様子を隣りでみて、佐為が思う。
自分が同じ立場であったら、目線を合わせるどころか、
ここで同じ空気を吸っていることにも耐えられすに
この場から逃げ出しているだろう。
(40)
「それにしても、検非違使風情に、佐為の君ともあろうものが、そこまで入れ込むとは…、
佐為殿に焦がれる女は、この宮中に星の数ほどいましょうに」
「いやいや。顕忠、いくら美味い酒でも、毎夜続けて飲めば飽きると申す。
佐為の君ほどにもなると、普通の女の味ではもう飽き足らず、変わった酒の味を
おもとめになられるのであろうよ」
そう言って、座間が下卑た視線で、佐為の隣りのヒカルの足元からその胸、
のど元まで、じっくりとねめつける。
ヒカルはその視線に、否が応でも、あの夜、自分の体を這った、ナメクジのような
座間の舌の感触を思い出さずにはいられない。仕立て直したばかりの青い狩衣の下の
自分の体を、まるで、透かして見られているような気色の悪さに、ヒカルは、
後ずさりして佐為の後ろに身を隠してしまいたくなるのを、必死でこらえた。
「さてもさても、佐為殿も夢中になる、この珍しい酒を今度ぜひ、
ご相伴させていただきたいものですなぁ」
座間の扇が、ついとヒカルの襟元に当てられた。
そして、まるであの夜のことを思い出させるかのように、その扇の先で、
ヒカルの白い喉もとをねぶった。
「この辺りはなかなか美味そうに見えるが、本当に美味いのはこの青い衣の下の
小さな二つのつぼみかのう。それとも、もっと下の方かのう」
ヒカルは見てしまった。座間と菅原の目の中には、まだあの夜の、犯され、
泣いて許しを乞う自分がいた。二人の目の中では、自分は今も陵辱され続けているのだ。
足がすくんだ。
何か言い返すなり、一歩引いて座間から離れるなりしなきゃと思うのに、
動けなかった。
その時――
パシリ。
と、小気味のよい音がして。座間の扇が、飛んで大内裏の庭先に落ちた。
佐為が自らの扇で、ヒカルの喉元に当てられていた座間のそれを、
打って飛ばしたのだ。
|