金魚(仮)(痴漢電車 別バージョン) 36 - 40


(36)
―――――キミどこで見てたの?
アキラは眩暈を起こしそうな気分だった。もしかしたら、ヒカルは本当にあの金魚かもしれない。
そんなあるはずもないことを思いついて、ますます頭がクラクラして倒れてしまいそうだ。

 ペットショップをガラス越しに覗きながら、母と二人で毎日食べたアイスクリームの味を
思い出した。アキラはいつもバニラを食べた。母はその日の気分で、いろいろためしてみるのが
楽しかったらしい。買い物帰りの小さな幸せ。
 それから暫くして、その相手は小さな赤い花に変わった。金魚には小さな顆粒状の餌を与え、
自分はその前に座って、甘い甘い氷菓子を口に運んだ。ときどきは、父や母もそれに加わった。

 ヒカルがアキラの鼻先に指を突きつけた。大きな瞳がまっすぐにアキラの目を射る。
「…………塔矢、オマエどっかで買い食い……………」
そう言いかけたが、すぐに眉間に皺を寄せて、「………んなわけないか…」と手を下ろした。
 「ナシ!ナシ!今のナシ!忘れて…!」
早口で一気に捲し立てる。ハアハアと、激しく上下していた胸の呼吸が落ち着いた頃、
ヒカルは小さくポツリと呟いた。
「オレ…ヘンかな…?」
俯いて頬を染める様子が可愛くて愛しくて………
「じゃあ、もう一度確かめてみる?」
アキラは再びヒカルの唇に触れた。今度は先程よりずっと深く長くヒカルの水のような
唇の感触を味わった。


(37)
 暫く二人で抱き合ったまま、身動ぎしなかった。ヒカルは照れて、顔を再び伏せていた。
静かな公園の中で、二人の吐息だけが耳に届く。
 沈黙を破ったのはアキラが先だった。
「…進藤…」
呼びかけた声に腕の中のヒカルがピクリと反応した。
「………ボクの家に来る?」
顔を伏せたまま、ヒカルは小さく…だがしっかりと頷いた。

 手をつないで、駅の方へ向かう。
「電車で帰るの?」
ヒカルがアキラの顔を横から覗き込んだ。ほんのりと頬を染め、とろけそうな笑顔をアキラに
向けた。
 アキラは首を振った。だが、視線はヒカルから外さない。もう、彼に自分の気持ちを隠す必要はないのだ。
心を奪われずにはいられないこの笑顔を飽きるほど眺めていてもかまわないのだ。
「また、チカンがでると困るからね…」
「今度は離れないよ。オマエがちゃんとガードしてくれんだろ?」
「それはもちろん…でも、今日はタクシーで帰るよ。」
ヒカルはふーんと気のなさそうな返事をしたが、その耳元で、「一秒でも早く帰りたい」と囁くと
真っ赤になって「バカ」と呟いた。


(38)
 タクシーを待っている間も、それに乗り込んでからもヒカルは楽しそうに笑っていた。
彼の瞳が潤んでいるのも頬が赤いのも、酔っているせいではなく、照れているためだ。少し、
疑わしいが、本人が断固として譲らないので、そういうことにしておいた。

 「進藤、入って…」
玄関の灯りをつけて、ヒカルを招き入れた。人気のない廊下の奥を覗き込むようにして、恐る恐る
靴を脱いでいる。
「先生、今度はどのくらい向こうにいるの?」
「来週頭に帰ってくるよ。」
ふーんと呟く声が聞こえた。
だから、遠慮しないで―――――そう言いかけたとき、ヒカルがアキラのジャケットの袖を
ぐいっと引っ張った。
「寂しくネエ?」
寂しい―と、感じたことはない。両親への愛情がないわけではない。ただ、一人になることも
必要だし、今それを実行しているのだ。
 もともと、自分は一人でいても、苦にならない。人がいてもいなくても自分の日常生活には
余り関係ないように思えた。
 もっとも、これはヒカルのことを抜きにしての話だ。
「キミがいないときは寂しかったけど…」
 アキラの言葉にヒカルはくりくりとした大きな目をキョトンとさせていたが、すぐに
にっこりと笑って頷いた。


(39)
 暫く居間でお茶を飲んだり、他愛のないおしゃべりをしてすごしたが、時間が経つに連れ、
口が重くなっていく。互いの言葉に対する返事がなおざりなったり、急にソワソワしたり…
『どうしよう…すごく胸がドキドキする…』
落ち着くために、残っていたお茶を一気に呷って、ヒカルに向かって微笑んだ。
「もう一杯、お茶飲む?」
 湯飲みを取ろうとした手を彼が軽く押さえた。
「あのさ…オマエの部屋にいかない?」
よく耳を澄まさないと聞き取れないくらい小さな声。俯いている彼の紅く染まった頬が、
前髪の隙間から覗いている。緊張の余り気が付かなかったが、耳も首筋も同じくらい紅い。
添えられた手は小刻みに震えていた。それは彼が震えているためなのか、それとも自分が震えているのかアキラにはわからなかった。
 喉の奥がカサカサしている。もう一杯お茶を飲みたいと思ったが、俯いたままのヒカルの気持ちを
考えるとこれ以上ここにいるのは意味がないことだと悟った。アキラは、つばを飲み込んで、
「じゃあ…」とヒカルの手を握ったまま立ち上がった。

 「オマエの部屋にいくの初めてだ…」
「そうだね…」
北斗杯以来ヒカルはちょくちょく遊びに来たが、アキラは自分の部屋に彼をあげたことは
一度もなかった。
 彼が訪ねてくるときは必ず居間へ通し、障子も隣の部屋へと続く襖も全て開け放った。
二人きりで狭い部屋の中にいるのが息苦しかったのだ。
 金魚鉢の中の金魚のように、どこにも逃げ場がなかった。苦しくて、息ができなくて、酸素を
求めて水面に顔を出し、口を開く。どんなに広い場所にいても、ヒカルが側にいるだけで、
途端に酸素が薄くなる。ヒカルの軽い笑い声や甘い体臭がいつも心をざわめかせた。
 碁盤の前に座るとそんな気持ちは忽ち霧散してしまうのだが、それでもふと緊張が途切れたときなど、
間近にある彼の柔らかそうな唇や細い首筋につい目を奪われてしまう。
 自室の前に着いたときアキラはヒカルの手を強く握った。


(40)
 「用意するから、ちょっと待ってて。」
ヒカルを部屋の前で待たせて、自分一人で中に入った。押入の中から、布団を取りだして、
畳の上に置いた。胸がドキドキする。もしかしたら、夢を見ているのではないだろうか。
本当の自分は、今、この部屋の中で一人で眠っているのかもしれない。
―――――寂しいから…ずっと好きだったから…こんな夢を…

 「塔矢…まだ?」
後ろを振り返ると障子の陰からのぞいているヒカルと目があった。ヒカルはソワソワと
落ち着きなくアキラに呼ばれるのを待っていた。
 やっぱり、これは現実だ。アキラの口元は自然にほころんだ。入っておいでと手招きすると、
ヒカルは小走りに寄ってきて、布団の上にちょこんと正座した。アキラもヒカルに習って、
二人で向かい合うように座った。
 ヒカルは至極真面目な顔で、「お願いします」と言った。まるで、これから対局を始めるかのような
その態度にアキラもつられて「お願いします」と頭を下げた。 端から見ればすごく滑稽に
見えるだろうが、二人とも大まじめだった。
 アキラは、ヒカルの頬にそっと手を当てた。触れるか触れないかほどの微妙な位置。指の
先で軽くなぞった。
「オマエさあ、なんでそんなおっかなびっくり触るの?」
ヒカルが首を傾げて訊ねる。
 言われて初めて気が付いたように、アキラは手を引っ込めた。
「いや…あの…触ると死んじゃうんじゃないかと思って…」
「オレが?」
ヒカルが目を見開いて、自分を指さした。
「キミが。」
と、アキラは頷いた。
「何言ってンだよ…バカだな…なんでそんなこと…」
「そうだね…ヘンだね…」
とぼけてごまかした。まさか、金魚とだぶらせて見ていたとは言えない。
「ヘンなヤツ〜」
ヒカルが笑った。耳を擽るような快活な声。つられるようにアキラも笑う。
 ひとしきり二人で笑ったあと、また、沈黙が訪れた。



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