光明の章 36 - 40


(36)
「フラワーフェスタ?なんだそれ」
和谷が教えてくれた聞きなれない単語を、ヒカルはオウムのように繰り返した。
「さぁ。フラワーっつうくらいだから、花がいっぱい咲いてるんじゃねーの」
「花ァ?そんなところで何するんだよ?」
「5月の3〜5日、フラワーフェスタ会場内で“ふれあい囲碁セミナー”が
開催されるんだよ。こっちは初心者向けの囲碁講座と、こども名人戦がメイン。
同時にオール囲碁団体戦もあるらしい。オレの仕事は、主にこども相手の指導碁なんだけど」
「ふうん。忙しいんだなー、和谷」
「そこでだ、進藤。悪いんだけど、オレの代理で行ってくれないか」
「ええっ!」
突然の頼み事にヒカルは驚き、持っていた散蓮華を皿の上にぽろりと落としてしまった。
皿にぶつかるカシャンという激しい音に、横のテーブルに座っていた客が何事かとこちらを伺っている。
「あ、えっと、無理ならいいんだ。越智に頼むって手もあるし」
「…越智」
因縁ある相手の名にヒカルの目が急に厳しくなる。その険のある目つきに気付かず、
和谷は話を先に進めた。なんとかヒカルの気を惹こうと必死に言葉を紡ぐ。
「オレの家、3日から父親の実家に里帰りする事になったんだよ。愛知県なんだけどさ。
フラワーフェスタに行ってから一人で愛知に飛んでいっても、
実質1日しかのんびり出来ないし。そんなんだったら行かない方がマシだけど、
久しぶりにじーちゃん達にも会いたいんだ。…二人ともかなりの歳だから」
どこまでが本当でどこからが嘘か、もう和谷自身にもはっきりしない。
里帰りするのは本当だが、和谷は仕事を優先するつもりだった。
フェスタ会場は関東の上のほうになる。県名を聞いても実はどこらへんになるのか
地理に弱い和谷にはさっぱりなのだが、さすがに日帰りはきつそうな距離だ。
それから家族に合流するのも疲労を重ねるだけなので、連休中は本当に一人で留守番
しようと思っていた。実家に頼っていた食事や洗濯も、2、3日なら辛抱できる。
これはヒカルを引き止めた理由として成立すればいいだけの作り話なので、
たとえヒカルに断られたとしても和谷は一向に構わなかった。
「オレ、行こうかな。なんか楽しそうじゃねェ?」
「でも、進藤…」
笑顔を見せるヒカルに、和谷は後ろめたさを隠し切れず矛盾した事を言う。
「いいんだよ、無理しなくても。だって目茶苦茶遠いぜ、会場」
「どこ?」
和谷が告げた地名に聞き覚えはある。だが場所となると日本地図の助けを借りなければ
確定は難しい。ヒカルも関東圏以外の地理にはめっぽう弱いのだ。
「和谷はみんなと一緒に行けばいいよ。オレんち旅行とかしないしさ。それに」
ふと視線を外し、ヒカルは少しだけ目を細めた。
「会いたい人がいるんなら、沢山会いに行った方がいい。その人と会えなくなってから
どんなに後悔したって、もう遅いんだよ……」
年下のヒカルが見せる大人びた表情に和谷はそれ以上詮索が出来ず、
自らの嘘がこの先良い方向へ転がっていきますようにと、胸中で神に願った。


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店を出る時、自分が誘ったんだから、と和谷は全ての勘定を支払った。
「いいのかよ?」
「今月余裕あるんだ。気にすんなって」
「サンキュー」
ヒカルは素直に喜び、礼を言った。プロになってからは自由に使えるお金が
今までより倍以上に増えたとはいえ、銀行まで下ろしに行くのが面倒くさく
て通帳管理は母親にまかせっきりにしていた。どうやらいつのまにかヒカル
名義で毎月定額を積み立てる貯金を始めたらしく、通帳の残高はヒカルの計
算より常に少ない数字になっている。一応キャッシュカードを持ってはいる
のだが、自分で下ろすことなどほとんどなかった。
とはいえラーメン代を支払えるくらいの額は常に財布の中に入っているのだ
が、連休の仕事を引き受けてもらった礼だと言われると奢って貰わない訳に
もいかない。和谷は義理堅いので、断れば必ず違う事で借りを返そうとする。
「美味かったー、あそこのラーメン」
満足げに腹を叩き、ヒカルが満面の笑みを浮かべる。
「ああ、スープも美味かったけど、チャーシューが絶品だったぜ。さすが、
本場の黒豚だな」
壁に貼ってあった“本場・鹿児島産黒豚使用”の文字を思い浮かべ、和谷も
大満足だったと太鼓判を押した。
日本棋院を出た時はまだ高かった太陽もすでに沈みかけている。暮れて行く
空を見上げながら、二人は言葉少なに元来た道を辿った。行きにあれ程時間
がかかったのというのに帰り道は嘘のように短く感じる。二人はあっという
間にいつもの岐路へと戻る事が出来た。
「今日は無理言って悪かった。代理の件はオレの方から棋院に連絡入れとく
から。お前は明日手合いが入ってるんだよな」
「うん。和谷は木曜?」
「そうなんだよ。明日だったら一緒に事業部に顔出し出来たんだけどなー」
「オレも、奢って貰ってありがと」
「それくらいでいいんならお安い御用だ」
「今度はオレがハンバーガーでも奢るよ。じゃあ、またな」
「あ、ああ、気をつけて帰れよ」
手を上げて背を向けたヒカルの後姿に、和谷はもう一度声をかけた。
「進藤!」
「何だよ」
昂ぶる感情に身を任せ、和谷はヒカルを無言で抱き寄せるとその体を強く抱
き締めた。知りたかったヒカルの体格は想像以上に細く、言い換えればクセ
になりそうな感触だった。
「わ、和谷?」
ヒカルの顔を見てしまうと、何故か自分の方が泣きそうになる。和谷は身じ
ろぐヒカルの肩に額をつけ、そっと目を閉じた。


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今にして思えば、銭湯に行ったあの日から、すでに何かが始まっていたよう
な気がする。落ち込んだ様子のヒカルが本当に心配で、なんとか力になりた
かった。それは友達として、当然の感情だった。
名勝負と讃えられた名人戦一次予選の直接対決以降、ヒカルが塔矢アキラと
よく話をするようになったのは和谷も知っていた。当時の二人は端から見て
も仲睦まじく、院生師範の篠田ですら、手合いもないのに棋院に来ては長時
間談笑する二人を見て、
「比翼連理という言葉は君たちにも当てはまりそうだ」
とからかっていたほどだ。意味のわからないヒカルは首を傾げていたが、古
典で習った覚えのあるアキラは、一人赤面していた。
永遠に続くかと思われた二人の仲が一変したのはいつからだったろうか。和
谷が気付いた頃にはすでにヒカルとアキラは別々に帰るようになっていたの
で、仲違いの原因が何であるかを今更聞くのは躊躇われた。
次第にヒカルから明るさが消え、笑顔を見せることがなくなった。同じよう
にアキラもまた、ヒカルと話すようになってから柔らかくなった物腰が以前
のようにピリピリしたものに戻っていた。
正直、和谷はアキラの事などどうでも良かった。気になるのはヒカルの杞憂
の原因だけだ。何か聞き出せやしないかと、どこへ行くにもしきりにヒカル
を誘った。それら全ての行為にやましい気持ちなど微塵もなかったはずなの
に、今腕の中にあるヒカルの体を、どうしても銭湯で見た裸身と照らし合わ
せてしまう。胸こそ膨らんでいないものの、ヒカルの後姿はボーイッシュな
少女のようで、脱衣所は一種異様なムードに包まれた。比較的若い男連中は
ヒカルを直視できずそそくさと退場していったが、助平そうな親父どもはチ
ラチラと盗み見を繰り返しては、用もないのに居座り続けた。下世話な視線
に苛立っていたのは和谷だけで、当の本人は自分が視姦の対象だったことに
全く気付いていなかった。
──だから、こいつは鈍感なんだ。
ヒカルの無防備さによって生まれる隙に、この先どんな人間が悪意を持って
付け入るかわからない。何の自衛策も持たないヒカルに無性に怒りが込み上
げ、和谷はヒカルの肩を掴むと前触れもなく唇を奪った。
「───ッ」
突然の和谷の暴挙にヒカルは何がなんだかわからないまま棒立ち状態だった。
夕方の帰宅ラッシュ時で人通りも多かったが、みな一様に素知らぬ振りで通
り過ぎて行く。夕闇に紛れたヒカルの小柄な姿は和谷の彼女に見えないこと
もない。街中でキスを交わすカップルなど珍しくもない今では、ヒカル達の
行為も特別なものだとは思われていないようだった。
それでもこれは間違っている、とヒカルは強い力で和谷の体を押し返そうと
するが、和谷はさらに腕を首の後ろにまわし、ヒカルの逃げ道をふさいだ。
そして、おもむろに唇を離し、言った。
「……なんで、拒まねェんだよ……」


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「…い、いきなりでそんなヒマなかったんだよ!」
吐息のかかる距離にまで自分を追い詰めておきながら拒むも拒まないもない
だろう、とヒカルは拳で和谷の胸を軽く小突いた。そんなささやかな抵抗は、
興奮した和谷にとって何の威力もない。回された腕に本気を感じ、ヒカルは
和谷を怪訝な顔で見上げた。
「いいかげん離せよ。オレでキスの練習すんな」
「──練習なんかじゃねェよ!」
ヒカルの言葉にカッとなった和谷は、火のような勢いで再びヒカルにキスを
する。
「ん、んんーッ」
ヒカルの口をこじ開けようと、和谷の舌が獰猛に動く。歯を食いしばって懸
命に拒むヒカルの脇腹を、和谷は右手で揉むように摩った。
「やッ」
くすぐったい刺激にヒカルは声を上げた。その口内を、和谷は我が物顔で遠
慮なく犯していく。思うまま舌を絡め、絡ませ、逃げれば追い、捕らえては
喰らい付く。和谷独特の荒っぽいキスに翻弄され、ヒカルは自分の力で立つ
事が出来ず、必死で和谷にしがみついた。
和谷の激しさは、加賀とは全く異なる性質のものだ。加賀は経験豊富ゆえ、
荒っぽいだけでなく緩急自在な技巧家だったが、和谷の行動には強弱がない。
一方的に攻め立てられ苦しむヒカルの目に涙が滲んでも、和谷は気付く様子
もなく行為に没頭していた。こうする事でしか自分の気持ちを伝えられない
という焦りも、和谷の思考回路を狂わせて行く。和谷もまだ子供なので、ど
んな難題も全力でぶつかれば道は必ず開けると思い込んでいる一面がある。
時に冷静さを失う和谷を常にフォローしていたのは、押しの弱い伊角だった。
だが今ここに、伊角はいない。
ヒカルの無言の涙が和谷の頬を濡らす。その時初めて、和谷はヒカルが泣い
ている事に気が付いた。
「………」
少し落ち着きを取り戻した和谷は、力強くヒカルを抱きとめていた腕を名残
惜しそうに緩めた。折角自由になったというのに、ヒカルは思うように体を
動かせず、そのままストンと歩道に倒れそうになる。
「進藤!」
結局、再び和谷に腕に支えられ、ヒカルも無駄に抵抗せずその支えに素直に
寄り掛かった。それでも、理不尽な仕打ちに対する抗議の涙は止まらない。
和谷の舌が、愛しさを込めてヒカルの涙を拭う。ヒカルを泣かせるような事
をしてしまったという罪悪感以上に、ヒカルを誰にも渡したくないという独
占欲の方が強く、その証を求めて唇がさらにヒカルの首筋へと下りる。
「…そんな風に泣くな…お前がそんなだから、オレ、止めらんねぇよ……」
「……全部…かよ…」
絞り出されたヒカルの言葉に、和谷の動きが止まった。


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「し、んどう?」
「……和谷がヘンなの…全部オレのせいなのかよ…お前がそんなだからって
言われたって、オレ全然わかんねェよ…」
和谷のシャツを掴んだまま、ヒカルは滑るように歩道にくずおれた。道連れ
になった和谷は歩道に膝を着く姿勢をとり、座り込んだまましがみついてく
るヒカルの小刻みに震える肩を、精一杯の愛情を込めて抱き締めた。
「違うんだ、進藤。お前のせいなんかじゃない。悪いのはオレなんだ」
ヒカルを苦しめるのは和谷の本意ではない。自分に怯えて震えているのであ
ろうヒカルの背を、和谷は優しく撫で摩る。ヒカルを誰よりも大切にしたい
と思う気持ち、言葉だけでは上手に伝えられない真剣な気持ちを、和谷は己
の手に込めた。
急ぎすぎたかもしれない。もっと違うタイミングがあるのかもしれない。
和谷の中で善と悪がせめぎ合い、先へ進もうとする欲求にブレーキをかける。
ヒカルの意思を無視し本能丸出しで先走った自分は、まだまだみっともない
甘ったれたガキだ。だが、物分りの良い大人になりたいとは思わない。自覚
した感情から目をそむけ、キスを笑い話にし、今までどおりの友達づき合い
を続けていく事に一体どんな価値があるというのだろう。
ヒカルへの行いは、遅かれ早かれ、いつかは起こるべき事態だったのだ。
「オレ、お前のことが好きだから、お前を誰にも渡したくない。こういうの
初めてでうまく…言えないけどさ。男に告られて気色悪いかもしんない、
でも本気なんだ。無理矢理キスしといてすげえ勝手な言い草だろうけど」
「………」
「オレ、お前を独り占めしたい…誰の目にも触れさせたくない。お前が誰に
でも人懐っこく笑いかけるのを見るとイライラしてくる…でもいつかは彼
女ができてどっか行っちゃうんだなと思ったら、相手の女にも嫉妬しそう
でさ。そんなのってヘンだけど、もうダメなんだ。……抑えらんない」
和谷はヒカルの背に回していた両手で、ヒカルの頬を包む。
「オレの事嫌いならちゃんと拒めよ。突き飛ばすなりなんなりしろよ」
ヒカルは動かなかった。涙の乾いた目で、和谷を見据える。
嫌われるかもしれない怯えを隠せない和谷の唇が、今度はそっと、ヒカルの
唇に重なる。拒む様子を見せないヒカルの熱に促され、和谷は小さな子供の
ようにヒカルの唇を貪った。ヒカルも、和谷の行為に従順だった。
熱い思いを口移しで伝える事に飽きることなく、二人は何度も何度も互いの
舌を絡め合う。
音を立てて離れた和谷の唇を、ヒカルは悲しさの漂う瞳で見つめた。
こうすることが和谷にとって最良だとは思わない。
我ながら残酷だな、とヒカルは歩道に目を伏せ、もしかしたら今日を最後に
自分から離れてしまうかもしれない和谷の手を、ギュッと握りしめた。
「…和谷、ありがとう。だけど、ゴメン…」



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