日記 36 - 40
(36)
アキラは自分を恥じていた。ヒカルの秘密を暴きたくないなどと言いながら、ヒカルが
リンドウを見ながら、誰に想いを馳せているのかが知りたかった。緒方ではないかと邪推して、
二人の仲を疑った。ヒカルのことになると、冷静ではいられない。自分がいかに、浅ましい人間かと
いうまざまざと見せつけられた様な気がした。
リンドウにしろ、日記にしろ、アキラの知るヒカルとはあまりにもかけ離れていて、
不安になる。ヒカルはアキラを「愛している」と、言ってくれた。あれ以来、一度も
その言葉を口にしてくれたことはないけど、今も気持ちは変わっていないと信じている。
それなのに、どうして不安になる必要があるのだろう。
理屈ではないのだ。―――――心がそう感じてしまうのだ。
ヒカルのことを好きだと言う気持ちを上手く説明できないように、この感情を説明する
ことなんて出来ない。ただ、漠然と不安を感じるのだ。
「進藤を攫って閉じこめてしまいたい……二人きりでずっと一緒に…」
ヒカルを自分だけのものにしたい。他の奴の邪魔が入らないように―――――――
「出来るわけないのに……」
自分もヒカルも碁が打てなければ、死んでしまう。お互いだけで、満足できるわけが
ない…。常に、強い相手との対局を望んでいるのだ。
「――――ラ…アキラ?」
アキラは、ハッとしたように顔を上げた。芦原が心配そうに覗き込んでいた。
「どうしたんだ?ぼんやりして…具合でも悪いのか?」
「い…いえ、何でもないです。」
「そうか…?ならいいけど…」
覇気のないアキラの返事に、芦原は、一瞬、納得しかねるような表情をしたが、黙って頷いた。
(37)
和谷に呼び出されて、ヒカルはいつも利用しているファーストフード店に入った。
和谷は、もう来ていて、手を振ってヒカルを呼んだ。明るい和谷の笑顔に、ヒカルも
つられて笑顔になった。
だが、和谷の顔を見ると、どうしてもあの時のことが思い出されて、次第に気持ちが
沈んでいく。
「和谷…何か用?」
声も暗い。
そんな、ヒカルに、和谷はぺこりと頭を下げた。
「すまん…!進藤!」
いきなり、謝られてヒカルはきょとんと目を丸くした。和谷は、かまわず続けた。
「オレ、あれから考えたんだけど…おまえ…もしかしてあの時起きてた?」
ヒカルの身体がビクンと、震えた。和谷が…?ウソだろ――――――?
和谷は、ヒカルの顔色が変わったのを見て、慌てて息も吐かずに、一気に話した。
「あの日、お前先に、つぶれちゃっただろ?みんな、寝顔見てかわい――って…
オレも女の子みたいだな―――って…」
「それで、夜中にこっそり…どんな感じかなと思って…ホント、ゴメン!」
和谷は好奇心だと言った。
ヒカルの緊張がゆっくりと解けていく。
……なぁんだ。やっぱりオレの考え過ぎなんだ。そうだよ…!友達だもんな!
おかしいと思った……バカだなあ…オレって…
ホッとしたら、涙が出てきた。
「進藤…?」
和谷が、恐る恐るヒカルの名前を呼んだ。
「もう!和谷のバカ!!オレ…オレ…すっげー悩んだんだから…!」
ヒカルが、涙を手の甲でゴシゴシ拭きながら、ワザと大げさに怒って見せた。
和谷は何度も「ゴメン」と謝った。
「オレを悩ませた罰に、ここは和谷のおごりだからな!」
「あー…安心したら、お腹空いちゃった。」
和谷は、笑って、自分の注文したバーガーを差し出した。
(38)
嬉しそうにバーガーを食べるヒカルを見て、和谷は複雑だった。ヒカルが、
あの夜のことで悩んでいるのは、わかっていた。罪の意識に胸が痛んだ。
だが、ヒカルに言ったことは、本当のことではない。
でも、冗談にするしかないではないか――――!あんな顔のヒカルを見ては……
悪ふざけだと言ったときの、ヒカルのあの顔……こわばっていた顔が、見る見るうちに
安堵の表情に解けていった。心底、ホッとしたようなヒカルの笑顔…。
あんなに怯えていたなんて……
暗闇の中で、震えていたヒカルの身体…柔らかな唇…触れた瞬間、信じられない
陶酔感が和谷の身体を包んだ。そのまま、ヒカルの唇から離れることが出来なかった。
「和谷。ジュース、一口貰ってもいい?」
ヒカルの声に、和谷の心は現実に引き戻された。ヒカルの手が、和谷のジュースを
とろうとしている。
「あ…買ってくるよ。」
ヒカルは、和谷が立ち上がろうとするのを制して、「これでいいよ。」と、和谷の
ジュースを手に取った。
ヒカルの口元に、和谷の目は、自然と吸い寄せられた。ヒカルの唇が、和谷が先ほどまで
口を付けていたストローに触れた。
ごくんと喉が鳴った。心臓は、破裂しそうなほど、早鐘を打っている。和谷は、視線を
逸らした。そのまま、見ていたら、先ほどの言葉を撤回して、ヒカルにキスをしていたかも
しれない。
「ゴメン!一口って言ったのに、全部飲んじゃった…」
ヒカルが、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「あ―――もう、しょーがねえなあ。」
手の掛かる弟をたしなめるように、和谷がヒカルの頭を軽く小突いた。ヒカルが無邪気な
笑顔を自分に向ける。素直で単純な可愛いヒカル。その笑顔に胸がズキンとした。
(39)
どうして、ヒカルにキスしようなどと思ったのか…和谷は、改めて考えた。
やはり、あの時からだと思う。 喫茶店で、ヒカルとアキラを見かけた時……。
ガラスの向こうにヒカルを見つけて、店に入った。声をかけようとした時、ヒカルが
一人ではないことに気がついた。声をかけ辛くて、二人に見つからないよう近くの席に
腰を下ろした。
二人の会話が気になってしょうがないが、良く聞こえなかった。
アキラに何を言われたのか、ヒカルの肩がしょんぼりと項垂れている。アキラが、
ヒカルの手をそっと握った。そして、素早く周囲に視線を走らせ、ヒカルの唇に自分の
それを重ねた。
信じられなかった。ヒカルとアキラが――――!?いや、何より信じられないのは、
アキラが周囲を見た時、自分と視線がかち合った―――にも関わらずに、堂々とヒカルに
キスをしたことが……だ。
二人がでていった後も、その場を動けなかった。
それ以来、ヒカルの姿を見ると、つい、口元を見てしまう。あの唇に触れたら、どんな
感じがするのだろうか…そんなことを考える自分に狼狽えた。
そして、勉強会の夜。悪のりした先輩棋士達に、ビールを飲まされて、眠ってしまった
ヒカル。あどけないその寝顔。微かに開かれた唇。ほんのりと赤くなった頬。
その場にいた全員が、その寝顔の愛らしさにハッとした。
「惜しいな…進藤…女の子だったら絶対コクるのに…」
「ほんと!ついてねー!男にしておくには、可愛いすぎる!」
皆は笑って、ヒカルの頬や唇を指でつついていた。その中で、和谷は一人笑えなかった。
(40)
自分の悩みは解決した。アキラに、よけいな秘密を持たなくてもすんだのだ。ヒカルは、
日記を取り出して、久しぶりにペンを持つ。ページをめくって、日付を書き込んだ。
「なんか、ずいぶん間があいちゃったなー」
やっぱりオレの考えすぎだった。
犯人は和谷!でも、イタズラだったってさ!
すっげえ悩んだのに……ホント、和谷のバカ!
絶対、和谷は違うと信じてたのに!!
でも、ハンバーガー、おごってもらったし、許してやるよ。
今度やったら、絶交だからな!
ホッとした気持ちが、行間から滲み出る。怒るよりも嬉しい気持ちが勝っている。
ヒカルは、クスクス笑って日記を閉じた。そこに描かれたリンドウまでもが、ヒカルの
気持ちに同調して、笑っているように見える。
――――――そうだ!
ヒカルは、鞄を持って立ち上がった。
トントンと軽い調子で、階段を駆け下りると、玄関から、母に言った。
「お母さーん。オレ、ちょっと買い物に行ってくる。」
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