落日 36 - 40
(36)
衣擦れの音が聞こえる。次いで密やかに優雅に笑いさざめく女房たちの声がする。
華やかな衣装。優美な仕草。艶やかな女房や公達。
けれどその中に誰よりも美しく優美なあの人はいなかった。
きらびやかな内裏を、さわさわと衣擦れを立てながらすれ違う貴族達。その中に、見知った顔を見
つけてヒカルは声をかけるが、彼女はヒカルの問いを否定する。
「どなたのことですの、その方は。」
何を言うんだ。あの時、佐為と碁を打っていたじゃないか。
「帝の囲碁指南役、それはあの方でしょう。菅原様、菅原様はご存知ですか?」
「まあ、おかしな事を。もう一人の囲碁指南役ですって?」
「そのような者はおりませぬ。」
「帝の囲碁指南役はこのお方、菅原様お一人でございます。」
「藤原佐為など、」
「そのような名の者は」
存じませぬ、と女房達は声に出さずににっこりと冷たい笑みを返す。
そんな筈は無い、と彼が次々を見覚えのある顔を、ついには見も知らぬ相手を捕まえて何度問お
うと、返ってくる答えは皆同じだった。誰に尋ねても、その名を知る者はいなかった。
ふと眉を曇らせ思いを遠くに馳せるような表情をした者も、次の瞬間、周りの刺すように冷たい視
線を受けて、仮面のような笑みを浮かべて、「そのような者は知りませぬ。」と彼を否定する。
誰もが皆、自分を騙しているのだと思った。
佐為はいたのに。
確かにいたのに。
皆、彼を忘れたのか。
いや、無かった事にしてしまいたいのか。
なぜ。
泣きそうになりながら辺りを見回す。
見知った顔はいないかと。
(37)
遠い廊下の端に、ちらりと切りそろえた黒髪が見え、ヒカルは目を見張った。
次の瞬間、彼を追う。
優雅な貴族たちが眉をひそめて自分を振り返る事など気にしない。
おまえなら。
おまえなら、あんな事は言わないだろう。
知らない、などと言いはしないだろう?
どこにいったんだ。いるんだろう?出て来いよ。
見回すと庭の端にまた、彼の黒髪が翻るのが見えた。
「賀茂!」
大声で呼ばわると、彼は訝しげに振り返る。
「なあ、おまえなら、」
そう言いながらヒカルは彼に駆け寄った。
佐為を知らないなんて言わないだろう?皆が嘘を言うんだ。佐為なんか知らないって、そんなの
はいなかったって、皆で俺を騙そうとしているんだ。
でも、おまえなら、おまえならそんな事は言わないだろう?
「賀茂、」
さらりと髪を揺らして向き直った彼はヒカルの顔を真正面から捕らえる。
けれどヒカルを見た彼はまるで知らぬ人を見るような表情でヒカルを見据えた。
「君は……誰?」
(38)
おまえは誰だ、と問われてヒカルは返すべき言葉を失う。
黒く光る一対の眼差しが自分を覗き込んでいる。闇の底のようなその瞳の色に吸い込まれそうに
なり、視界がぐらりと揺れるのを感じた。風景はそのまま歪んで正常な形を失い、足元の地面は
ずぶずぶと沈みこむ泥地に変わる。闇の淵に吸い込まれる。落ちる。堕ちていく。誰もいない、何
の気配もしない、自らの存在さえ定かでない、光さえも届かない虚空の闇。漆黒の闇の中で平衡
感覚を失い膝の力が抜けていくように感じた。
どさり、という音と、全身を打った鈍い痛みで、ヒカルは覚醒した。目を開けると薄墨色の夕空を黒
い雲が覆い始めていた。そうしている間にも、夕闇は刻一刻と濃くなっていく。地平線の近くに雲に
覆われつつある月影が朧に霞んで見えたが、風が雲を押し流し、見る間にその光を隠してしまった。
湿った風が強さを増しつつある。雨が降るのかもしれない。
嵐の予感に、ヒカルはよろよろと立ち上がる。
ふらつく身体を何とか支えながら、ヒカルは誰もいない屋敷を立ち去ろうとした。
当てもなく悄然と歩いていたヒカルの耳に、何か不穏な音が届く。はっと顔を上げると、細い悲鳴
の後にバタバタと数人が駆けてくる音が聞こえ、ヒカルは咄嗟に腰に手をやった。
けれどそこにはいつも差しているはずの太刀は無く、ヒカルはすっと自分が蒼ざめるのを感じた。
なんと言うことだ。
あの音が、都を襲う盗賊どものものだということは、ほぼ確実だ。
それなのに、なぜ自分は丸腰でこのような所にいるのだ。
俺は今まで何をしていた。俺は一体何物だ?
なぜ、何のために俺はこんな所にいる?
(39)
これは罰だ。
薄れそうになる意識の中でヒカルはそんな事を思った。
都を守る検非違使たるものが逆に盗賊に捕らわれて、陵辱を受けている。
耐え難い屈辱と苦痛。
苦しくて、悔しくて、自分の無力さが許せなくて、それなのに自分の肉体はこんな無骨な男どもの
狼藉にさえ快楽を感じ始めてしまっている。
罰だ。
自分の身を案じてくれた友の思いを踏みにじり、寄せられる同情をよい事に自分の欲しいものだけ
を貪り食った事への、自分の務めを忘れ悲しみだけに溺れていた事への、そして何より守るべき人
を守れなかった事への、守らねばならぬことに気付きもしなかった自分自身への罰だ。
だからきっと、俺はこの屈辱を甘んじて受けねばならないのだ。
これは罰だ。
それなのに、こんなに心もは苦しくて、悔しくて、屈辱と嫌悪に嘔吐しそうなのに、身体はこんな奴ら
の陵辱をさえ悦んでいる。もっと激しくもっと乱暴に、この身が壊れてしまうほどに、意識など、想い
など全て手放してしまえるほどに、もっと強く、もっと激しく、更なる陵辱を望む自分が確かにいる。
自分自身の浅ましさに、欲望の醜さに吐き気がする。
こんな醜く汚れた自分には、こんな夜盗こそが相応しいのかもしれないとさえ思う。
(40)
醜い男の、異臭を放つ醜い一物が眼前に突きつけられる。顎をとらえられて、無理矢理口の中に
それを捩じ込まれた。饐えた臭気に吐き気がこみ上げる。けれど男はそれを許さず、ヒカルの髪を
鷲掴みにして揺さぶる。後ろは別の男のモノに穿たれ、腰を掴まれて揺すぶられる。
前後から責めたてられて、苦しいのに、苦しいはずなのに。
心のどこかが麻痺してしまったようで、もはやそれを嫌だとさえ感じない。
「早く代われよ、今度は俺の番だぜ。」
「待てよ、あと、うっ、くうっ…!」
後ろからヒカルを抱え込んでいた男が急かされて更に激しく腰を動かす。
「ちっ、それじゃ俺はこっちにするぜ。」
また、顎を掴まれて、口の中に押し込められる。反射的に咳き込みそうになった瞬間、後ろから
体内にまた熱い精が注ぎ込まれるのを感じた。
ヒカルの腰を抱えて余韻に酔っていた男は、別の男に強引に引き剥がされ、ずるりと彼が体内
から抜け出るのを感じたと思ったら、次には別の熱く猛り狂う男が押し入ってきた。
「あああっ!」
思わずヒカルの口から悲鳴が漏れる。けれど男はヒカルの様子になど躊躇せず、強引に自身
を捩じ込む。
「す、すげぇ、いい…」
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