再生 36 - 40
(36)
『緒方さんの鍵か――――』
アキラの小さな呟きは、何だか悲しげだった。
それは、どちらに対してなんだろう……。
オレが先生の鍵を持っていたから―――?
それとも…先生がオレに鍵を渡したから――――――?
毎週、和谷のところで行う研究会も、気がそぞろで身が入らない。
みんなに溜息をつかれて、「もう帰れ」と追い出された。
「あ――――っ もう!こんなことじゃ碁に集中できないよ!」
ヒカルは自室のベッドの上で、何度も寝返りをうった。
眠ろうとして目を瞑っても、アキラと緒方のことが気になる。
「本当に…困る…………」
悲しくて仕方がない。
二人のことを考えると涙が出そうだ。
本当は、アキラと緒方が仲直りしてくれればいいのだ。
それで、もし、アキラが去ったとしても―――。
その時は辛くてしょうがないだろうが………諦める。
ヒカルにとっては、アキラが誰より大事なのだ。
緒方がたった一言…大切な言葉を言いさえすれば―――。
そうすれば、この痛みはなくなる。
別の痛みが生まれるかもしれないけれど、
大丈夫だ…きっと…我慢できる。
「平気だよ…オレ…」
泣きたくないのに、勝手に涙がでてくる。
「一人になっても平気だ……」
ウソだ。
アキラが離れたと思って大泣きしたくせに―――!
「平気だ…」
両手を顔の前で交差させた。
佐為の顔が瞼の裏に浮かんだ。
(37)
眠る前は、いつも楽しいことを考えるようにしていた。
そうすれば、悲しい夢を見ないですむ。
佐為の笑顔にきっと会える……。
朝、目覚めたとき、楽しい気分でいられる…そう信じていた。
でも、夢の世界が楽しいほど、現実は悲しかった。
一人きりだと言うことを思い出させた。
やっぱり、夢は夢でしかないのだ―――――
佐為が存在しない世界にいることを、強く強く感じさせる。
それでも、寂しい夢を見たくなくて、夜毎の儀式のように繰り返した。
しかし、その儀式を最近はしないことの方が多かった。
現実も悪くないと思えるようになったからだ。
佐為……塔矢……
「オレ…また…独りになっちゃうのかな…」
緒方先生もこんな切ない思いをしているのかな…。
涙がこぼれた。
止めようと息を詰めたら、喉の奥がヒューヒューと鳴った。
その夜の夢の中に、想い人は現れてはくれなかった。
(38)
緒方のマンションのインターフォンを押した。
やっぱり今日も留守らしい。
緒方は忙しいのだから、家にいる方が珍しいのだ。
鞄の中から合い鍵をとりだした。
溜息がでた。
本当はこの鍵を使いたくはない。手の中でそれを弄んだ。
一瞬、帰ろうかと思った。
いや、だめだ。首を振る。
ヒカルは思い切って鍵を差し込んだ。
広い部屋の中に、たった一人でいるのは心細かった。
部屋の主に早く帰ってきて欲しい。
そうでないと、挫けてしまいそうだ。
馬鹿なことをしようとしている。
また、緒方に怒られるのだろうか。
でも、これ以上ないくらい考え続けて出した結論だ。
今日は何を言われても、絶対に退いたりしない。
緒方の言うように、確かに、自分は子供だが……子供にだって言い分があるのだ…。
不意にアキラの顔が思い浮かんだ。
頭を振って、それを払おうとした。が、巧くいかなかった。
「あ…そうだ…」
ヒカルは奥の部屋に行き、水槽の前に立った。
悠々と自由に流れていく鮮やかな色。
魚達の乱舞は、次第にヒカルの心を落ち着けてくれた。
ヒカルは、ただ無心にそれを見つめ続けた。
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玄関の扉を開けた時、見慣れたスニーカーが目に入った。
ああ…来ているのか…。
そっと、静かに扉を閉めた。
部屋の奥に入るとヒカルが水槽の前に立っていた。
暗い部屋の中、水槽の仄かな灯りがヒカルの顔をぼんやりと照らした。
「進藤?」
声をかけると、ヒカルは顔を上げた。が、またすぐ水槽に目をやった。
「どうした?灯りもつけないで。」
スイッチに手を伸ばして、緒方が言った。
「奇麗だね…魚…」
ヒカルは、自在に泳ぎ回る鮮やかな色の群を見つめていた。
緒方もヒカルの傍らに立って、水槽の熱帯魚を眺めた。
水流に揺れる水草……その間を自在にすり抜けていく魚達……。
蛍光灯の光が、魚の姿をより一層美しく飾った。
二人は暫く黙ったままだった。
緒方はヒカルの横顔に視線を向けた。
――――何を考えているのだろう――――
視線を感じたのか、ヒカルが緒方を見上げた。
大きな黒い瞳……吸い込まれそうだった。
「先生――――塔矢のことだけど…」
ヒカルが口を開いた。
また、その話か――――うんざりした。
(40)
「先生――――塔矢のことだけど…」
ヒカルがそう言った時、緒方の眉がピクリと動いた。
僅かに表情が険しくなった。
かまわず先を続けた。
「オレ、やっぱり塔矢に言った方がいいと思う……」
ヒカルは緒方から視線を逸らさなかった。
緒方が大きく溜息をついた。
「その話はもう終わりだとこの前言っただろう?」
ヒカルはもう一度繰り返した。
緒方が応じるまで何度でも言うつもりだった。
「それで、俺が言ったとして―――アキラと前みたいになったらどうするんだ?
お前、それでもいいのか?」
緒方がイライラと言い放った。
同じ話を何度もするな――――と、言外に匂わせている。
ヒカルはぐっと息を呑み込んだ。深呼吸して心を落ち着けた。
「いい……よ――」
緒方の目を見据えて言った。
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