失着点・展界編 36 - 40
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その夜、湯舟に浸かりながらヒカルは伊角に言われた言葉を思い返していた。
「細っこい…かなあ。オレ。」
むんっと腕に力こぶを作ってみる。確かに期待した程変化しなかった。
腹筋も、あまりついていない。力んでもポコッと膨らむだけだ。
「あれ、なんだろう、この痣…、」
二の腕のところにくっきりと青っぽく痕があり、揉むと痛みがある。
首元や胸の痕とは違った。
「あっ…、そうか…。」
バスルームに引っ張って行った緒方の手の痕だった。その後ヒカルの顔に
まだ冷たいシャワーを浴びせたのだ。
「…大人の体…か…。」
目眩がしてふらついたヒカルを抱きとめた胸は、とても広くて大きかった。
次の日は1日おとなしく寝ていたが、痛みさえ完全に退いてしまえばもう
ジッとしていられなくなって、あくる日は河合らがいる碁会所に顔を出した。
久々ということもあって熱烈な歓迎ぶりで、仕事中だった河合もすぐに
駆け付けて来て、他の常連客達も連絡を取り合ってぞくぞくやってくる。
「まいったなあ…」と思いつつ、期待に光り輝くおやじ連中の瞳に負けて、
片っ端から3子4子置の4面打ちをこなしていった。
それはとても楽しかった。だがヒカルが甘かったのは、それで希望者が
さばけると思ったのに、後から後から新顔が増えて来ることだった。
「そうだ!」
ヒカルは電話で伊角を呼び出した。加勢してもらおうと思ったのだ。
伊角はすぐにやって来た。碁会所の入り口にやって来た伊角を見てヒカルは
ハッとなった。…伊角の後ろに和谷もいたのだ。
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「おいおい和谷センセイ!、商売道具はもっと大事にしねえとなあ!」
和谷の右手の包帯を見るなり騒がしく河合が声をかける。和谷は舌を出して
頭をかいて見せただけだった。ヒカルは対局に集中するふりをして、しばらく
顔を上げなかった。そんなヒカルの隣に伊角が腰掛けた。
「…電話もらった時、うちで二人で打っていたんだ。あいつも『行く』って
言うから…。」
「う、うん。」
「和谷先生しばらく不戦敗だったけど、事故にでもあったのかい?」
対局相手が何気なく尋ねて来るが、ヒカルも伊角も言葉を濁しただけだった。
当の本人は、いつもと変わらない様子で向こうで5面打ちを始めている。
「和谷センセイ、そんな手で無理しない方がいいんじゃないですかい?」
「アハハ、いざとなったら左手で打ちますよ。なんならもっと一度に相手
してもいいんスけどね。」
その言葉を聞いてヒカルはカチンときた。伊角が頭を抱える。
「次からはあと2人追加参加してもらうよ!」
ヒカルは6人相手に打ち始める。和谷と目が合い、火花を散らさせる。
「伊角先生は何人相手してくださるんですか?」
「オ、オレは4人で…。」
碁会所の中での時はあっという間に過ぎて行った。
すっかり暗くなった夜道を、3人で歩く。
「…楽しかったな、今日。」
「…ああ。」
ヒカルが満足気に呟き和谷が自然に頷く。伊角がそんな二人を見つめていた。
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その時ふと和谷が立ち止まり、伊角の方を振り返った。
「ごめん、伊角さん…。ちょっと、進藤と二人で話ししてきていいかな…。」
ヒカルがギクリとして助けを求めるような視線を伊角に送り、伊角も慌てた。
「和谷!約束したはずだぞ、おかしな行動はしないって…!」
「…話をするだけだってば…。」
和谷はすがるような目でヒカルを見る。何か決意をしている様子だった。
和谷を恐れる一方で、今度の対局は打たせたいという気持ちもある。
相手がアキラだとかは関係なく、そうしなければ本当に和谷が囲碁界から
去ってしまうような気がした。
「いいよ、和谷。…少しだけなら。伊角さん、…悪いけど待ってて。」
伊角をその場に残し、2人で道路を渡った人気のない公園に向かった。
「進藤…この前は…ごめん…。謝って済むものじゃないし、許してもらおう
とも思っていない。一生恨んでくれていい。」
ヒカルの前を歩きながら和谷は話し出した。
「…いいよ、もう。伊角さんにも言われた。…忘れるよ。オレ。」
「だけど、オレは、塔矢にお前を渡すつもりはない。」
ヒカルの足が止まる。和谷も立ち止まり、振り返った。
「分かってる。そんな事オレが言う資格なんてないって。だけどオレは…
あいつにお前を渡すのだけは絶対に嫌だ。オレはいつか必ずあいつを倒す。
そしてお前を奪ってやる。それだけ言っておきたかったんだ。」
「和谷…!」
ヒカルは軽い目眩がして目を閉じた。和谷を囲碁界に結び付けておく要素が
皮肉にも自分の事でアキラに対する嫉妬心になるのだ。
その一瞬の隙をつかれるように、ヒカルは和谷に肩を掴まれ引き寄せられて、
唇を捕らえられた。
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ヒカルは体を固くした。だがそれは、
今までとは違いごく軽く唇どうしを触れあわせるだけのキスだった。
「…さよなら、進藤。」
和谷は淋し気な笑みを浮かべるとヒカルを残して走り去って行ってしまった。
ヒカルは黙って和谷の後ろ姿を見つめるしかなかった。
道路脇に腰掛けて待っていた伊角は戻って来たヒカルを怪訝そうに見た。
「あれ?和谷は?」
「…先に一人で帰った。」
「…何かあったのか?…まさか、あいつまた…」
伊角が咄嗟に公園の向こうを見た。和谷を追い掛けに行きそうな勢いだった。
「あ、ううん、…違うんだ。何もされていないよ。」
「え?そ、そう…?」
あれは別れのキスだったのだ。それに、自分のために伊角と和谷が仲たがい
するような事になるのも嫌だった。特に伊角には、自分が引き起こした今回の
件でこれ以上迷惑をかけたくなかった。自分で何とかしなければいけない。
「オレもここからは一人で…。伊角さん、心配かけてごめん。ありがとう。」
「進藤…」
やはり何かあったのでは、という不安そうな表情はしながらも、一人で帰りた
いと言うヒカルの気持ちを汲みとってくれて伊角はその場に留まった。
アキラは、明日、帰って来る。
だが一人で歩きながら考えても今夜中に事態を解決できる答えが見つかり
そうにない。それは自分が子供だからだろうか。
「…あの人だったら、何か答えを出してくれるだろうか…。」
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…あの人?誰の事を考えているんだ、オレは…。
数歩歩いてはそう打ち消し、また数歩歩いては迷う。足は自然に駅前の
碁会所に向かっていた。「あの人」が居る可能性がある場所。
マンションの場所も部屋番号も正確に覚えていなかった。
あの夜のように、偶然に出会える事を期待するしかなかった。
…期待?何を?
碁会所はまだ明かりがついていたが、足を入れる訳にはいかなかった。
あの人に会う所を誰にも見られたくない。正確には、自分があの人に
会いたがっていることを誰にも知られたくなかったのかもしれない。
あの日、自分に起こった出来事を知っている唯一の“大人”に。
「…また夜遊びか?」
碁会所の窓の明かりを見上げて歩道に佇んでいたヒカルの背後からふいに、
掛けられた声。全身の血がその声のした方に向かうのを感じて、ヒカルは
自分がいかに心細かったのか自覚した。振り返るとそこに緒方が立っていた。
「…緒方先生…。」
「遅くならないうちに帰りなさい。」
冷徹なほどにぴしゃりと言い放たれ、緒方は碁会所の中に入って行った。
救い上げられた直後に再び池の中に落とされたように、ヒカルは一人
取り残された。両手を握りしめ、唇を噛む。
こんなものかもしれない。子供の都合よくはならないのが、大人なのだ。
だだをこねるように心は揺れたが、碁会所に背を向けのろのろと歩き始める。
カツカツと歩幅の広さを表わす足音が追って来くるのに気付いたのは
暫くしてからだった。
碁会所から離れた場所でその声は再びヒカルに投げかけられた。
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