とびら 第五章 36 - 40
(36)
ご飯のおかわりをしようと立ち上がった和谷をしげ子がさえぎった。
「だ〜め! 食べ過ぎたら、入らなくなっちゃう! 冴木さんもだよ」
戸惑う二人を見て、森下夫人は笑った。
「ごめんなさいね、二人とも。今日は特別なデザートがあるのよ」
「あるんだよっ」
母娘は楽しそうに顔を見合わせる。森下は渋い顔をして、何だ、と聞いてきた。
だが母娘は教えない。長男は知っているらしく、黙って食事を続けている。
夕食後、そのデザートの正体が明らかとなった。
目の前に、大きなチョコレートケーキが現れたのだ。
「わたしが作ったんだよ。いっぱい食べてね!」
皿を渡しながら言う。いつもは既製のもので、手作りは初めてだった。
「食えるの?」
しげ子は普段の料理の手伝いさえしない。
そんな彼女が作ったものが、はたしておいしいのかと、本気で疑ってしまう。
「大丈夫だよ、和谷くん。お母さんも一緒に作ってたから。と言うよりも、お母さんの
手伝いをしげ子はしただけだよ」
「お兄ちゃん!」
「い、いただきますっ」
雰囲気を険悪にしないよう、慌てて和谷と冴木は頬張った。
たしかに甘さ控えめでおいしかった。だが和谷にはもの足りなく思えた。
(進藤と食べたのは、今まで味わったことのないくらい美味しくて、甘かった……)
口の中に味がよみがえる。それとともに、ヒカルの肢体が――――
「和谷くん、おいしい?」
首をかしげながらしげ子が顔をのぞきこんできた。
「うん、おいしいよ」
「ほんと!? 良かったあ。冴木さんは?」
同じように冴木も笑顔でうなずく。はしゃぐしげ子を、森下だけが仏頂面で見ている。
「もう一つどうぞっ」
うれしそうに皿の上にケーキをのせてくるしげ子に、和谷は罪悪感を覚えていた。
これ以上、食べたくないと思ってしまったのだ。
口の中に残る、棋院でのチョコレートの味を、消してしまいたくなかった。
(37)
先に風呂に入った和谷は冴木と自分の布団、二つを敷いていた。
そこへ冴木がにやにやしながら部屋に入ってきた。障子をぴったりと閉める。
「冴木さん? どうしたんだよ、変な顔して」
「これ、な〜んだ?」
人差し指と親指にはさまれたそれを見て、和谷は血の気がひいた。
見覚えのあるコンドームがその手にあったのだ。
「そ、それ!」
「脱衣所に落ちてたぜ。気をつけろよ、和谷」
受け取る和谷の顔は真っ赤になっていた。ズボンのポケットから落ちたのだろう。
「和谷にそういう子がいるとは知らなかったなあ」
冴木の目がおもしろいものを見つけたときのように輝いている。
和谷はその顔を見ないように背を向けたが、冴木はすぐに目の前に回りこんできた。
「いいじゃん、聞かせろよ。俺が見つけて良かっただろ? もししげ子ちゃんだったら
どうする? 師匠だったらどうする?」
考えて、和谷は恐ろしくて身震いした。
「でもさ、偉いじゃん、和谷。ちゃんとゴム使ってさ。男の義務だよな」
冴木は避妊のことを言っているのだろうとわかって、和谷は複雑な気持ちになった。
本当は男を抱いて、下痢をさせないために使用しているのだから。
「どんな子だよ。教えろよ」
興味津々といったふうだ。和谷は返事をするものかと思った。
だが意に反して、言葉が無数にこぼれおちていった。
「騒がしくて、無鉄砲で、お調子者で、物知らずで……」
「おいおい、いいところを言えよ」
冴木が苦笑する。
「無邪気で、明るくて、元気で、でもときどき寂しそうで……」
言っている先からそれらの言葉が空々しくなってくる気がした。
ヒカルをこんな簡単な単語で言い表すことなど出来ない。
言葉を途切れさせてしまった和谷を、冴木は何も言わずに見つめた。
もう茶化すような表情はしていなかった。
「そいつが、すごく好きなんだな」
好き? この胸のうちの想いはそんな単純なものではない。
では何と言えばいいのか。和谷はそれが思い浮かばないため、しかたなくうなずいた。
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冴木は仰向けに寝転がり、軽く笑った。
「おまえにそんな子がいたなんて、意外だな」
「そうかな」
和谷はあぐらをかいて、冴木のほうに向き直った。
「そうだよ。おまえ、恋よりも今は友情のほうがいいって感じに見えるよ。その証拠に、
進藤とべったりじゃん」
別に自分とヒカルとの関係を知っているわけではないとわかるのだが、どきりとした。
「進藤は森下門下、ってわけじゃないけどさ、おまえにとってはやっぱり弟弟子みたいな
もんだろ? だからかわいくてしょうがないんだろうなって見てて思うよ」
ところで、と冴木はうつぶせになり、和谷を見上げてきた。
「その子とはうまくいってんのか? 俺の彼女はさ、俺が囲碁ばかりだってこのあいだ、
文句を言ってきたんだ。仕方ねえよな、俺は囲碁の棋士だぜ? で、今日は泣かれたよ。
森下師匠の家に行くって言ったからさ。おまえはそういうのない?」
首を横に振るとうらやましそうなまなざしを向けられた。
何だか申し訳ない気分になってしまう。
「でも、俺の好きなやつ、他にも相手がいるから、うらやましくなんてないよ」
口に出してからしまったと思った。取りつくろおうとしたが遅かった。
「何だよ、おまえ二股かけられてるのか!?」
やはり冴木は驚いたようで、大声を出して急に起き上がった。
「いや、二股というか、何と言うか……」
世間ではやはりそう見られるのだろう。公認の二股……おかしな関係だ。
「おまえそれでいいのか!? そんなことするような女、こっちから振ってしまえよ」
「できない」
即座に和谷は返した。自分からヒカルを失うなんて、とてもできない。
「いいんだ、別に。だって、そいつが俺の腕のなかにいること自体、奇跡なんだから」
だがこの奇跡を幸運だと言い切れるほど、和谷は強くなかった。
「それに、そいつが本当に求めてるのは、俺でも、もう一人でもないんだ」
三股か、と聞く冴木に力のない笑みを返す。
「もう死んでるやつを、そいつは求めてるんだ。たぶん、そうだと思う」
いきなり和谷は冴木に抱きしめられた。
「不憫なやつだな、おまえも。そんな苦しい恋をしてるのか」
元気を出せよ、と背中を叩かれる。切なくて、泣きたくなった。
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しばらく和谷は冴木の胸に顔をうずめていた。少し心が軽くなっていた。
ヒカルに会って、少なからず自分は落ち込んでいた。
呼び出したのは、別に本当にチョコを渡したかったからではない。
何か理由が欲しかった。そのために今日のイベントを利用しただけだった。
和谷は自分の部屋に呼ぶことをずっとためらっていた。
ヒカルは気にするなと幾度も言うが、そういうわけにはいかなかった。
けがれた禁域のように感じる自分の部屋。
だから棋院で会うことにしたのだ。まさか情事をすることになるとは思わなかったが。
(初めて、酒も薬も使わずに、あいつを抱いたんだ……)
ヒカルがあんなにも欲情するとは知らなかった。
正気のように見えて、正気ではない、あの瞳。
男に抱かれることに何の抵抗も感じないヒカルの身体。
ヒカルをそうしたのは、自分だけではないのだ――――
(思えば、進藤と塔矢は切っても切り離せないんだよな)
初めてヒカルと会ったのは院生試験のときだった。
そのときの言葉を今でも鮮明に覚えている。
『あそこから始まるんだ。打倒塔矢アキラの第1歩が』
ヒカルは院生のこともプロになるということも、本当の意味では意識していなかった。
ただアキラだけを追っていた。そしてそれはアキラも同じだった。
ヒカルが院生になって間もないころ、アキラは来た。自分はただの偶然だと思った。
しかしヒカルは自分を見に来たんだと言い張った。
何を馬鹿なことを言っているのだと思った。しかし今ではそれが真実だったとわかる。
若獅子戦のときだってそうだ。ヒカルを見ていた。
あの真剣なまなざしを忘れられない。
そう、アキラはずっとヒカルを見ていたのだ。近くにいる自分よりも、深く。
ヒカルとアキラは碁で強く結びついている。誰もそれを断ち切ることはできない。
それがつらい。自分は今の時点で、とてもアキラには及ばない。
ヒカルとの結びつきは同じ院生仲間だったとか、同期だとかしかない。
その絆のもろさに押しつぶされそうなほどの苦しさを感じる。
前に進んでいくヒカル。その横にはアキラがいる。それが当然の顔をして。
自分はその後ろでもがいているのだ。
一生そうなのかもしれないと思うと、やりきれなくなる。
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「うわ! 冴木さん!?」
いきなり頭をくしゃくしゃにかきまわされ、和谷は悲鳴を上げた。
「嫌なことは寝て忘れるにかぎる。明日は朝一番に棋院に届け物があるし、もう寝よう」
森下が今日渡すはずだった原稿か何かを持っていくのだ。
布団のなかにすべりこむと、冴木が明かりを消した。
「なあ冴木さん」
暗闇のなか、動く影に向かって話しかける。
「なんだ?」
「今度、師匠と進藤の対局があるだろ。そのとき、見ててやってくれないかな」
「進藤のことを?」
自分の心臓の音が耳にうるさい。
「うん」
「おまえの代わりに?」
真っ暗で表情は見えないはずなのに、かえって見られている気分になる。
かわいた唇をつばで濡らし、平静さを装って言った。
「俺の、代わりに」
「わかったよ。安心しろ」
次第にお互いの顔が見えるようになってくる。冴木は優しい顔つきをしていた。
「おまえたちがプロになってうれしいよ。もうすぐ一年だよな。これからどんどん忙しく
なるぞ。低段者のうちは小さな出し物にもよく呼ばれるしな。心してかかれよ」
「うん、ありがとう冴木さん」
冴木が自分の兄弟子で良かった。そう思った瞬間、おどけた声音が聞こえた。
「しっかし、おまえに彼女ねえ。しげ子ちゃんもかわいそうに」
「なんでしげ子ちゃんが出てくるんだよ」
「なんでもないよ。それにしても、しげ子ちゃんはケーキが好きだよな」
冴木がはぐらかすように話を変えた。和谷は首をかしげながらもそれに応じる。
「プロになってさっそくおごらされたよ。ケーキ二つ、ぺろりと平らげてた」
憮然として言うと、冴木は人差し指を立て、真面目な顔をした。
「でもまだケーキでいいと思わないか? そのうちブランドの時計やらが欲しいと言い
出すかもしれないぞ」
言われてぞっとする。そんな和谷に冴木はさらにおっかないことを口にした。
「ところでさ、和谷。来月のお返し、3倍返しと言われてるんだけど、どうしようか?」
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