うたかた 36 - 40
(36)
それから数日、ぱたりと由香里の名前を表示しなくなったケータイの画面を見つめて、冴木は重い溜息をついた。
ヒカルとは何もなかったが、由香里との約束がなければ自分は確実に『何か』をしていただろう。
(魔が差したってやつだろうな…。早いうちに由香里に謝っておこう。)
意外にも由香里は怒っていなかった。
この間は私も大人気なかったわ、と言って笑う彼女の声に安心し、次の研究会が終わる時刻に待ち合わせの約束をした。一気に肩の荷が下りた気がした。
(37)
台風接近中のニュースをいやに声高に告げるテレビを消して、車から降りる。和谷のアパートの階段を上がって呼び鈴を押すが、いつも通り音は出なかった。
軽くノックして扉を開けると、プロと院生が何人かずつ対局中の碁盤を囲んで、勝負の行方を見守っていた。
ぐるりと見渡すがヒカルの姿はない。和谷の近くに腰を下ろし、進藤は?と小声で聞くと、和谷は盤面を見つめたまま、まだ、と短く答えた。
あの夜のヒカルを思い出す。碁石を片付けながら、捨てられた子犬のような瞳をしていたヒカルを。
対局が終盤にさしかかったとき、ヒカルが現れた。冴木が小さく手招きをすると、ヒカルは対局の邪魔にならないように静かに走ってきて、冴木の隣にちょこんと正座した。
何度かヒカルの顔を盗み見ると、ヒカルの瞳は盤面を映してはいたが、どこか遠くを見ているような、もしくは何も見ていないような、心ここにあらずの瞳だった。
「進藤、お前目ェ赤いぞ?どうしたんだ?」
対局が終わり検討に入って、ヒカルが来たことにやっと気付いた和谷が、そう声をかけた。
「えーと…、き…昨日、徹夜でゲームしてたら目が腫れちゃって…。」
「おいおい、なに無茶してんだよー!!」
二人のやりとりを聞きながら、嘘だ、と冴木は直感的に思った。ヒカルがずっと対局にも検討にも集中していなかったことは、冴木が一番よく知っている。
(『アイツ』のことを考えてたのか…?)
ヒカルを小一時間問い詰めたくてたまらなかった。冴木は苛立ちをごまかすように、湯飲みに冷めたお茶を注いで一気に飲み干した。
「進藤、本当に大丈夫か?お前もう帰った方がよくねえ?」
覇気のないヒカルを心配する和谷の声と、それにつられてその場にいる全員がヒカルに視線を向ける気配。ヒカルはしきりに大丈夫と繰り返したが、研究会はお開きになった。
「しん…」
進藤、オレが車で送るよ。そう言おうとしたとき、由香里の顔が頭をかすめた。二度も同じ理由で約束をすっぽかしたら、もう許してもらえないだろう。
「お前、なんかふらふらしてるぞ。家まで送ってやるよ。」
和谷がヒカルと一緒に玄関へ向かっている。少しのやり取りのあと和谷だけが部屋に戻ってきた所を見ると、どうやらヒカルは断ったらしかった。
(……なにホッとしてるんだ、オレは。)
早く由香里との待ち合わせ場所に行かないと、と車のキーを掴んで冴木は立ち上がった。
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「光二の部屋に行くのは久しぶりね。」
冴木の愛車のミラーを自分の方に向けて、風で乱れた髪を直しながら由香里が微笑んだ。
「お互い忙しかったからな。」
(ああ、いつも通りだ。オレも由香里も。)
黄色に変わる信号をちらりと見てゆっくり車を停止させると、フロントガラスにぽたりと雨滴が落ちてきた。それを合図にしたかのように、次から次へと降ってくる。
急な雨に歩道をゆく人々の足は自然と速まっていた。傘を持たない人の服が、どんどん湿った色に染まっていく。
(さっきから天気悪かったもんな…進藤はもう家に着いてるかな。)
もしまだ帰る途中だったら────…そういえば、ヒカルは傘を持っていただろうか?持っていたような…いや、やっぱり持っていなかった気がする。
「光二?」
由香里の訝しげな声と、後ろから聞こえるクラクションで冴木は我に返った。
いつの間にか信号は青になっている。慌てて車を発進させると、由香里の刺すような視線を頬に感じた。
「…また考えごと?」
「……今度の対局のことで、ちょっとね。」
「そう…。」
下手な嘘だ、と自分でも思った。由香里から顔を逸らすように、窓の外に視線を投げると、高校生くらいの女の子が傘もささずに泣きながら歩いているのが見えた。なにかあったのだろうか。長い髪は雨で肩に貼り付いて、彼女をよりいっそう哀れに見せている。
一瞬ヒカルがその女の子のように雨に打たれて泣いているんじゃないか、という考えが頭をかすめた。
(まさか…な。)
打ち消しても打ち消しても、嫌な気分は取れなかった。
胸の中が黒煙で満たされたように気持ち悪い。
だめだ。
やっぱり、もうこれ以上自分を欺くことは出来ない。
「由香里、ごめん。」
考えるより先に、勝手に口が動いていた。
「降りてくれ。」
冴木は口早にわめきたてる由香里を車内から追い出すと、ヒカルの家に目標を定めた。雨をはじくワイパーのせわしない音が、ますます心を焦らせる。
由香里との関係はもう修復不可能だけど、後悔はしていない。
今はただ、ヒカルだけを求めていた。ヒカルに会いたくてたまらなかった。これまでこんなにも誰かを渇望したことはあっただろうか。
ヒカルの家の近くに車を止めて、ヒカルの家に向かいながら確認のための電話をすると、ヒカルの母から意外な答えが返ってきた。
「え?…今いない?」
(先輩の家────先輩って…誰だよ…)
いきなり周りのもの全てが色褪せていくようだった。
(……進藤…)
目的地を失って、冴木はしばらく道路の真ん中に立ちつくした。
何故か、泣きながら歩いていた女の子の固く握りしめた拳を思い出した。
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────今の進藤の手は悪手だ。ここで黒は死ぬ。
────上辺も攻めておかないと、左辺の損失を取り戻せない。
盤上で黒に切り込みながら、冴木はもう一度ヒカルの首筋を見た。紅い花びらは変わらずそこにある。
ヒカルの家に行く途中の道で偶然ヒカルを見つけたとき、どれだけ自分が嬉しかったかをヒカルは知らない。
ヒカルを助手席に乗せたとき、どれだけ自分が緊張したかをヒカルは知らない。
冴木さんみたいなお兄ちゃんが欲しかった、というヒカルの言葉が、どれだけ自分を地の底に叩き落としたかを…ヒカルは知らない。
自分がそういう存在としてしか見られてないことは百も承知していた。でも、『いい兄貴分』という役回りは今日で終わりにしてみせる。
気付いていないのなら、気付かせてやればいいのだ。
パチリ。
────これで終局だ。
「……6目半負け…。」
「進藤のこの手は良かったな。これでオレは左辺は諦めなきゃいけなくなる。」
「でも結局こっちで上手く打たれちゃったからさぁ…。」
つい、碁盤よりもシュンとうなだれるヒカルばかりを見てしまう冴木の視線に気付いたのか、ヒカルが顔を上げた。
ふたりの顔は今にも触れ合わんばかりに間近にある。冴木があんまり真っ直ぐ見るのでヒカルは顔を背けたかったのだが、ヒカルの体はまつげを震わすことすら許さなかった。
(氷だ。)
ヒカルの頭に、加賀の瞳と冴木の瞳が交互に浮かんで消えた。
(加賀が炎なら、冴木さんは氷だ。)
冴木が冷たいというわけではない。ただ、心の中にキンと響く瞳が、そう連想させた。
「進藤…」
冴木は動かないヒカルの首筋に顔を寄せ、紅く色づく情痕に舌を這わせた。
「……っ」
びくりと震えるヒカルの肩を抱き、冴木はなおも加賀の痕を塗り替えるように同じ場所に吸い付く。
ぴりっと痛みが走り、ヒカルが甘い溜息をついた。冴木の手がヒカルの腿の内側に滑り込んでくる。
「なん…で‥っ、さえきさ……」
「…好きなんだよ、進藤が…。」
大きく目を見開くヒカルのこめかみに一つ口づけを落として、そのまま耳へと降りていった。
「……進藤…いい?」
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耳元で優しく囁く冴木の声を掻き消すように、ヒカルは首を横に振った。
「なんで…?進藤はオレのことが嫌い?」
「ちが…う、けど…っ」
「…加賀ってヤツのことが好きだからダメなのか?」
ヒカルの上気した頬が更に染まったのを見て、冴木は眉をひそめた。
「オレが初めてこの部屋に来たとき、進藤が言ってた『アイツ』って…加賀のことか?」
「え?」
「進藤にあんな悲しそうな顔させるヤツのことなんか、忘れちゃえよ。」
冴木はヒカルを抱きしめると、熱い唇を何度も奪った。その間から舌を差し入れてヒカルのものを絡め取る。
ヒカルは抵抗したが、その細い腕ではたかが知れたものだった。冴木も負けず劣らず細身ではあるが、こう見えて筋肉はちゃんとついているのだ。
「……加賀‥は…」
キスの合間にヒカルが小さく声を上げた。
「加賀は…オレの傍にいてくれるって、言ったんだ……。」
「だから加賀のことが好きだって言うのか?進藤、それは恋じゃないよ。」
「え……」
諭すように言うと、ヒカルの大きな瞳はゆらゆらとさまよった。混乱しているのが手に取るようにわかる。
(あと、もう一押しだ。)
冴木はヒカルの両肩を掴み、しっかりと瞳を見据えた。
────白星を掴むのは、オレだ。
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