黎明 36 - 47
(36)
「ヒカル、食事を。食べられるか?」
声をかけると、寝台の中に身を起こしていたヒカルはゆっくりと振り返った。
傍らに膳を整えると、彼はゆっくりと手を伸ばして椀をとり、その中の粥を啜った。
その様子にアキラは小さく胸を撫で下ろした。
この屋敷へ来た当初、彼は食物を中々受け付けず、一匙の重湯を流し込んでもむせ返してしまう
程だった。何も映さない虚ろな瞳の彼の身体を抱きかかえながら、ゆっくりと時間をかけて、一匙
ずつ、手ずから食べさせてやった。
けれど今は、彼の手を借りずとも、僅かとはいえ自らの手で食事を取る彼を、彼の身体がここまで
快復してきた事を、喜ぶべきはずなのに一抹の寂しさをどうしようもなく感じてしまって、その思い
を封じ込むように、アキラはヒカルの姿から目をそらした。
やがて椀が置かれる小さな音がして、彼が食べ終えた事を感じたアキラは、式を呼んで膳を片付
けさせ、自分は隣室へと戻った。
(37)
夜半、浅い眠りにつきかけていたアキラに、小さな呻き声が届き、彼は身を起こした。
手燭を掲げながら隣室へと赴くと、果たして薄闇の中に寒さに震えてうずくまる彼の姿があった。
すばやく火桶に新たな火を起こしてから、彼の元へとより、肩に手をかけ、彼の名を呼んだ。震え
ながら彼はアキラを見上げ、腕を伸ばしてアキラの身体に抱きついた。小さく震える彼の背を抱き
しめながら、また、彼の名を呼んだ。
呼ばれて、アキラの腕の中でヒカルが小さく身じろぎした。そして彼を抱いたまま身を横たえようと
するアキラを押しとどめる力を感じて、アキラはその異変にもう一度彼の名を呼んだ。
「…ヒカル?」
僅かに身体を離すと、ヒカルがアキラを見上げ、先ほどまではアキラにしがみついていた手で、
震えながらアキラの身体を押し戻した。そしてぼろぼろと涙をこぼしながら、ヒカルはアキラを見
つめて頑なに首を振った。縋るように見上げる瞳の中に、けれど強い意志を感じて、アキラは彼
の身体から己の身体を引き離した。
追い縋るように彼の手が伸びる。けれど伸ばされた手は中空で止まり、彼の意思がそれを押し
とどめる。彼の内の葛藤をそのまま示すようにその手が震える。震える指先は次の瞬間、彼自身
の身体を封じ込めるように己の腕に巻きついた。
為す術もなく、アキラはただ彼を見つめていた。
抱えるように自らの身体を抱いていた彼は小さな悲鳴を上げて、そこへうずくまった。
己の内の嵐に抗うように、彼は小さく縮こまり、呻き声とも悲鳴ともつかぬ声が彼の喉から漏れた。
(38)
奥歯を噛み締め、拳を強く握り締めて、彼の姿から目を背けた。すると耳にはただ彼の呻き声
だけが届いた。
堪え切れぬ悲鳴がアキラの耳を苛み、耐え切れずにアキラはその部屋から逃れた。壁を伝い、
震える足をなんとか進ませて、怯えるようにその部屋から逃れた。もはやあの部屋に、己のいる
べき場所はない。彼のためには、自分はもはや必要でない。彼が彼の意思で嵐と闘おうとする
ことは、彼自身の力で、己を取り戻そうと闘うことは、喜ぶべき事である筈なのに。くず折れそうに
なる身体を支えるように、柱にしがみ付いた。
その時、逃れるようにヒカルから離れようとしたアキラの耳に、かつて聞いた事もない程の絶叫
が届いた。その響きに異変を感じたアキラは顔色を変え、もといた部屋へと走った。
「ヒカルッ!!」
(39)
暖められていたはずの室内に足を踏み入れた彼は、一瞬、その冷え冷えとした空気に足を
竦ませた。
それから次の瞬間、駆け寄って彼の身体を力任せに抱きしめた。がくがくと震る細い身体は、
もはや抱きつく力さえ残されていなかった。
彼の身体は恐ろしく冷たかった。彼の衣を剥ぎ、自らの衣を脱ぎ捨て、自らの体熱を移し与え
るように彼の身体を抱きながら、少しでも熱を呼び覚まそうと空いた手で彼の背をさすった。
こんなにも彼の身体が冷え切ってしまった事はこれまでになかった。冷たく芯から冷えた彼の
身体は、抱きしめる己の熱を全て与えても元の通りに温まる事はないのではないのかと思うく
らいに冷たかった。
震えは次第に小さくなり、細い腕は力なく垂れ下がり、呼吸は浅く、白い面には血の色もなく、
アキラは抱きしめた身体から確実に熱が去りつつあるのを感じていた。
ぞくり、と身が震えた。
この震えは、寒さなのか、恐怖なのか。
このまま、彼の身体が冷えたまま、温まる事がなかったら。
目を開けることもなく、冷たく冷えたまま動かなくなってしまったら。
「…ヒカル、」
腕の中のかけがえのない存在が奪われつつある恐怖に震えながら、彼の名を呼んだ。
「ヒカル、」
呼びながら、応える力もない細い身体を抱きしめた。冷たい頬に頬を摺り寄せながら、彼の名
を呼び続けた。背を擦り、冷たい指先を手で包み、身体全体で彼の身体を包み込み、一欠片
の熱も漏らさぬように、この身の発する熱を全て彼に与えられるように。
(40)
ぴくり、と彼の指先が僅かに動いた。一瞬、気のせいかと思った。その次に、小さな息が肩にかかる
のを感じた。腕の中で彼が小さく身じろぐのを感じた。
「…ヒカル?」
僅かに身体を離し、彼の名を呼びながら、顔を覗きこんだ。額に張り付く前髪をそうっと祓うと、彼の
睫毛が小さくふるえ、それからゆっくりと、彼は目を開けた。
開かれた目はけれど虚ろに、アキラを映しはしなかった。
「……ヒカル?」
目の奥に次第に光がともり、ゆっくりと焦点の合ってきた目は何かを探すように宙を彷徨う。その眼
差しが、何かを捕えたように、ある一点で止まり、そこを凝視した。
アキラは息を飲んで彼の眼差しの追う、何もないその空間を振り返った。
「佐為。」
か細くはあるけれど、はっきりとした声が、かの人の名を呼んだ。
けれど応えは無い。あろう筈がない。
身動き一つする事もできずに、いないはずの人を見つめる彼の眼差しを、凍える思いで見つめた。
中空を凝視していた目の光がゆっくりと薄れ、諦めたように閉じられた瞼から一筋の涙が流れ落ちた。
(41)
僅かに温かみの戻ってきた身体を、そっと抱いた。
抱え込むように彼の頭を胸に抱くと、暖かい涙が胸に落ちるのを感じた。
声にならない声で彼の名を呼ぶと、呼び声に応えるように彼の腕が背に回された。
静かな呼吸を、吐く息を、重なり合った胸に響く彼の鼓動を、確かに感じた。
彼の髪は柔らかく、彼の肌は滑らかで温かく、微かながらもその息遣いは確かで、裸の胸に感じる
湿った吐息から、彼の身体全体から、甘い香りが薫るような気がした。
確かに温かく息づいている肌の温もりは心地良く、ぴったりと触れ合った皮膚を通して彼の熱が己
の身体に流れ込んでくるのを感じる。同時に自分の体温もまた彼を暖めているのを感じる。
そうしてじっと彼を感じていると、鼓動も、体温も、吐く息も、全てが一つに溶け合って、体全体が彼
と溶け合って一つになってしまったかのような錯覚を感じる。
錯覚に過ぎないことを意識の片隅に置きながら、けれどこのひと時だけ、喪われずにすんだ温もり
を抱きながら、彼は優しく暖かい、束の間の儚い夢にしばしまどろんだ。
(42)
隣室から苦しげなうめき声が聞こえる。彼が、彼自身と闘っている声が。
耳を塞いでしまいたい。いっそここから逃げ出してしまいたい。何も、何の手助けもできない自分
には、その声をただ聞いているのは辛い。それでも、彼から目を離すわけには行かない。彼を襲
う嵐が彼から去るまで、抱きしめてやる事さえできなくとも、それでも自分はここにいなければな
らない。嵐が激しすぎて彼を壊してしまう事のないように、何もできなくともそれだけは見守って
いなければならない。
耐え切れぬように、高い悲鳴が上がる。けれどそれを堪えようと彼が闘っている気配を確かに感
じるので、まだ、その声の内に彼の理性を感じるので、彼の闘いの中に入っていく事はできない。
求められてもいない手を、差し伸べる事はできない。
そうやってヒカルを襲う嵐との戦いはヒカルの勝利に終わる事もあり、またヒカルの敗北の果てに、
アキラが震える彼の身体を抱いて暖めてやる事もあった。けれど次第に彼の意思は嵐に負ける
事なく、アキラが隣室に彼の気配を窺っている内に、嵐が去っていく事の方が多くなっていった。
そして今日もまた、彼は嵐に敗れることもなく、ようやく隣室は静まり、苦しげながらも呻き声は寝息
にかわる。アキラはやっと重く苦しい息をつき、自らの身体をほっと寝台に横たえた。けれどアキラ
の胸の内にざわめく風がアキラから眠りを奪い、彼はまた、夜の闇に彷徨い出る。
(43)
身を切るような風の冷たさに我が身を抱きしめながら縋るように立ち木にもたれかかり、夜闇に目
を凝らして、彼はかつて見た甘い夢を思う。
温もりを求めて彼が自分に縋りついてきたのは、本当にあったことだったのだろうか。最後にヒカル
の身体を抱いたのはいったいいつの事だったろう、とアキラは振り返る。
もはや彼は単に身体を暖めるための人肌の温もりを求めはしない。
けれどアキラの手は、身体は、すっかりヒカルの身体を覚えてしまった。
寒い、と震える小さな声を、肩の薄さを、腰の細さを、しがみつく腕の力を、指先にさえ込められた
力を、暖めてくれと訴える声を、おまえが欲しいと繰り返しねだり彼を求める声を、アキラは覚えて
しまった。
震えながらしがみついてくるあの細い身体を抱きしめて、身体全体で彼を感じたのは、彼が自分を
求めて、それでも望むものを与えない自分をなじったのは、あれはいつの事だったろう。
求められるのが嬉しかった自分を知っている。駄目だ、と、彼の求めを冷たく拒絶しながらも、求め
られることが嬉しくて、身体は熱く燃え上がった。そんな風に、最後に求められたのは、一体いつの
事だったろう。
彼の快復を喜びながらも、その一方で、もう一度求められたいと、もう一度あの身体を抱きしめたい
と望む自分がいる。
求められて、けれど彼の望みを冷たく拒む。拒むからこそ、熱く求めてくる。その熱が、いま一度欲
しかった。失われてしまう事を知っているからこそ、それが欲しかった。
そのためにはどうしたらいいか、知っていた。
たった一片の香を、彼に与えてやりさえすれば、それでいい。
いっそ、そうやって、いつまでも彼が手元から逃げてゆかないように、常に自分を求め続けるように
飢えさせていたい。そんな望みが確かに自分の中にある事を感じて、アキラは自らの欲望の浅まし
さに絶望しそうになった。
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けれど彼がそんな風に自分を求めたことは、もうずっと遠い昔のことのように思う。
事実、ヒカルはもうほとんど正気に戻り、嵐は日を追って間遠く、また弱くなり、ついには彼を襲う事
もなくなり、ある朝、アキラがヒカルの部屋を訪れると、整然と座りアキラを待っていたヒカルが、静
かな声でアキラにこう告げた。
「俺、もう、大丈夫だから。」
(45)
「俺、もう、大丈夫だから。」
静かな声で、真っ直ぐにアキラを見つめて、ヒカルはそう言った。
その静謐な目の光を見て、アキラはゆっくりとまばたきをした。
近いうちにこの日が来る事を、アキラは知っていた。
意を決したアキラはすいと立ち上がり、戸を開けて、ついてくるように、と、ヒカルを促した。立ち
上がろうとしたヒカルがよろめく。手を貸してやりたい思いを飲み込んで、彼が彼の足で立ち上
がり、歩き出すのを待つ。
萎えた足で踏みしめるように歩くヒカルを背後に感じながら、アキラはゆっくりと廊下を歩いた。
ある部屋の戸を開け、ヒカルがアキラの後をついてその部屋に入ると、アキラは静かに戸を閉
めた。そして部屋の隅に置かれていた香炉を手に取り、それを捧げるように持ちながら振り返っ
てヒカルを見た。
アキラの手の中の香炉を見てヒカルの視線が揺れた。香のもたらす甘い夢をヒカルは思い、
一瞬、その夢を追うように目を閉じ、けれどすぐにそれを振り切って目を見開き、また真っ直ぐに
アキラを見据えた。
アキラはそんなヒカルを鋭い目で見つめながら香炉に火を点けた。ヒカルは微かに眉根を寄せ、
けれど平静を保とうとこらえながら、それを見ていた。
甘い香りが部屋に漂う。ヒカルの身体が瘧のように震えた。震えながらも視線は香炉から離せ
ないようだった。アキラはヒカルのその様子を冷静に観察しながら手の中の香炉をかざし、甘い
香を吸い込んだ。
アキラの頭がその甘さにくらりと痺れた。
自分こそが、この甘い香りの与える夢に逃げ込んでしまいたい。そしてヒカルと二人で甘い夢の
中に漂っていたい。つらい事など全て忘れて。今はもういないひとの事も、決して振り向いてはく
れない、いつまでもいない人を想うつれない心のことも、なにもかも全て忘れて。今なら、まだ間
に合うのかもしれない。身体だけでも、いや、上手に操れば彼の心も、自分のものにできたの
かもしれない。香の見せるそんな幻惑が一瞬アキラを襲い、その歪んだ夢を映したようにアキラ
の顔が歪んだ。
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あの香りがどれ程甘やかな夢を見せるか知っている。
心はそれを拒絶しなければならないと思っていても、一度溺れた事のある身体は、あの夢を欲し
てやまない。
全身から脂汗が滲み出そうだった。
歯を食いしばって、ヒカルは香を求める己自身と戦った。
香炉を手に自分を誘う彼は、自分の知っている彼とは全くの別人のように見えた。
これも香の見せる魔なのだろうか。常ならば鋭い抜き身の刃のように斬り付ける眼差しが、今は
濡れて妖しく光り、それは底も見えぬほどの暗い闇の淵のようだ。
黒い瞳がヒカルを誘う。共に闇の中へ堕ちよと。
ヒカルはその闇を、彼を、端麗な冴えた月を、全てを飲み込む深い底なし沼に変えてしまった香
の魔を、心底憎んだ。違う、と心の中で叫んだ。こんなのは彼じゃない。
では彼でなければでは、何だ?
それは。
それは、自分だ。
淫りがましく浅ましく、ただ人肌のみを求めた、闇の底にいた時の己の姿だ。清冽な眼差しが恐ろ
しくて、清浄な彼が妬ましくて、淫猥な身体を擦り付けて彼の内の熱を煽った、あれは自分自身の
姿だ。
そしてヒカルは自分が既に香の魔に囚われてしまっていて、今、己の目に映る彼は真実の彼で
はなく、自らの望むように変貌させた彼なのだと悟る。彼の中に存在しないはずの魔を、自らの闇
を、彼に投影させてしまった自分の心弱さを、そうやって彼を汚した己の闇を、ヒカルは呪った。
憎しみを込めて彼を睨む。
視線にこめられた呪に、眼前の魔物が、怯んだように顔を歪ませた。
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甘い香にうっとりと酔うアキラの顔を、ヒカルが睨みつけるように真っ直ぐに見据えていた。ヒカル
の眼差しがアキラの幻を切り裂き、彼の目の光にあって、アキラは逃げ出しそうになった己の弱
さを呪った。
なにもかもを、台無しにするところだった。最後の最後で、弱さを、脆さを、露呈してしまったことを
アキラは呪い、それをヒカルに気取られたかもしれないと思うと、猛烈に己を恥じた。けれどその
弱さを押し隠して、香炉をヒカルに差し出した。
闇のように深く黒い瞳が妖しくヒカルをいざなう。
けれどヒカルは香炉を睨みつけながら、ゆっくりと首を振った。
アキラはヒカルのその様子を見ながら、もう一服、その香りを胸に吸い込んだ。
深く吸い込みすぎて、頭の芯がぐらぐらと揺れるのを感じた。あと一服、吸い込んでしまえば、自
分もまた、この甘い香りの闇に堕ちるかも知れない。堕ちることを恐れながらも、心のどこかで堕
ちてしまいたいと感じている自分がいる事を、アキラは自覚していた。
香に痺れたこの身体がくず折れそうになれば、彼の手が己の身体を抱きとめてはくれまいかと、
そんな浅ましい考えがちらりと彼の頭の隅をかすめた。それは全てを捨て去り全てを失っても惜
しくは無いと思わせるほど、甘美な毒を含んだ夢だった。
けれど彼は闇に堕ちることもなく、香の魔に囚われる事もなく、ひとたび瞼を閉じ、そしてゆっくり
と開いた時には、その瞳からは先程の妖しさは消え、いつものように鋭い光を放っていた。
そして眼前の少年が先程と変わらず、彼と同じくらい真っ直ぐな眼差しで彼を見つめているのが
わかると、彼の眼は和らぎ、口元に穏やかな笑みをやっと浮かべた。
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