裏階段 アキラ編 37 - 38


(37)
「あっ」
不馴れなマウスの操作での最初の一手を置く位置をアキラは過ったようだった。
「落ち着いて。すぐに慣れる。」
画面からアキラが置いた石を消してやろうとした。
「いえ、このままでいいです。一度置いた以上は…」
「そうはいかん。」
「本当にいいんです!」
「おいおい、意地になるんじゃない。」
それでもマウスの上のオレの手の動きをアキラが制しようとして掴み、その時画面から黒石が
消える代りに妙な位置に白石が置かれてしまった。一瞬アキラとオレとで顔を見合わせる。
「いいよ。このままで。」
オレがわざとらしくため息をつきながらそう言ってやるとアキラは赤くなってオレの手を離した。
「…最初からやり直すかい?」
そう尋ねるとアキラはオレの顔を画面を交互に見遣ってから黙ったまま頷き、
それを見て思わず吹き出しながら画面を最初に戻した。
少しムッとしたように唇を尖らせてアキラはもう一度モニターに向き直る。
今度は慎重にマウスを操作し、こちらの一手一手に時間をかけて応手を選ぶ。
ちらりと見たアキラの横顔は幼いが真剣そのものだった。
研究会でも何度となくアキラの相手をしているが、その時と同様に
アキラに対し手心を加える事をしなかった。
既にアマチュアの大会では塔矢アキラの名は有名になっていた。
かなりなセンスを持った少年がアキラとのあまりの実力差に早々に自分の碁の才能に見切りをつけて
将棋に転向してしまった話が当時は話題となっていた。


(38)
「…来年からはアキラはアマの大会に出さないようにしようと思う。」
世間からすれば先生のその決断は親バカの極みに受け取られかねないものだったが、
実際大会で数手も打たぬうちにアキラの相手の子供が投了してしまう事が重なっては無理もなかった。
“戦う碁”と“楽しむ碁”、両方を相手と共有出来る程にはまだアキラも相手も「子供」すぎた。
プロ棋士になる事を視野に入れつつある、と周囲の者誰もがそう感じていたし、
アキラの中に自覚があったのだろう。
大会の規模の大小に関係なく「対局」と名のつくものにアキラは容赦がなかった。
何より先生は“生け簀”で釣りをさせるような行為でアキラの中の勝負に対する貪欲さが
磨耗するのを怖れたのだ。
大海の荒波の中でただ一人で魔物のような巨大魚と格闘するような、そういう対局を
重ねる事になる将来を見据えての判断であった。
…そして事実、アキラはその魔物と出会い長く戦いの波間に漂うこととなる。

ふと気がつくと、アキラの頭がくらりと前に傾き、ハッと驚いたようにしてまた画面に
見入ろうとしていた。
時計を見ると10時をまわったところだった。うっかりしていた。
ただでさえ今日はアキラにとって気疲れする事が多かっただろう。
「すまなかった、アキラくん。もう寝なさい。」
「でも…」
そう言ってなおマウスを操作しようとするアキラの手に殆ど力はなかった。その指や指の叉が
ほんのりと赤らんでいる。幼い時からアキラの体が眠がっている時に表れる状態だ。



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