誘惑 第三部 37 - 38
(37)
今日こそは帰る、と言ったヒカルに、やはりアキラは不満そうな顔をした。
「だって、オレ明日は手合いがあるしさ、それにいい加減帰らなくちゃ。」
「手合い?そうなんだ。じゃあ、ここから一緒に行けばいいじゃないか。」
「え、おまえ、明日、対局あるの?」
「うん、大手合い。相手は…誰だったかなあ。そこら辺に通知あると思うけど。」
「そうなんだ。何か、久しぶりだな。一緒の日に対局があるのって。」
「そうだっけ?」
「……そうだよ。」
「……そうだね。」
「だからさ、明日は棋院で会えるから、いいだろ?」
じっとヒカルを見ていたアキラが、ふわっと笑って言った。
「いいんだよ、わがままを言ってみたかっただけだから。」
無防備な笑顔を見せられてヒカルは言葉に詰まった。
なんだなんだそのカワイイ顔は!新手の引止め作戦かよ!ああああ、そんな顔見せられたら
帰れなくなるじゃないか!そりゃあオレだってずっと一緒にいたいけど、でもそんなわけ、いか
ないだろ。もう着替えないし、お母さんだっていい加減おかしく思うだろうし。
「どうしたの、進藤?」
ヒカルの目を覗き込むようにしてアキラが言う。
その視線を断ち切れるほどに、ヒカルの精神力は強くはなかった。
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ああ、結局やっちまったよ…、と軽い自己嫌悪を感じながら、ヒカルはもう一度シャワーを浴びた。
無造作に服を着込み、髪を拭きながらベッドに戻る。
そっとベッドの端に腰掛けると、丸くなってまどろんでいたアキラがヒカルの気配を感じて目を開け、
ヒカルを見て微笑んだ。
「帰るよ。」
「うん。」
幸福そうな微笑みに、本当は引き止めて欲しいと思ってるのは自分の方なのかもしれない、と思う。
手を伸ばして、髪を軽く梳くと、心地良さげにアキラが目を閉じる。手を放せなくなってしまって、その
ままアキラの頭を撫で続けていると、アキラがクスクスと笑い出した。
「どうした?やっぱり泊まってく?」
からかうような声でそう言って、目を開けてヒカルを見上げる。言われてヒカルがムッとしたのを面白
がるように笑っている。
「…帰るっ!」
ヒカルは憮然として立ち上がり、乱暴にリュックをしょって玄関へと向かう。
「あ、」
そして、ふと心配になってもう一度アキラに確認するように訊ねた。
「明日、大丈夫だよな?」
「大丈夫だよ。」
「棋院まで、一人で来れるか?」
「…当たり前だろ。」
「そうかよ?甘ったれの塔矢アキラくんはお迎えがなきゃ行けないかなーっと思ったんだけどな。」
「じゃあキミが迎えにきてくれるのか?へーえ、嬉しいなあ。」
「甘ったれんなよ!バカヤローッ!」
寝ているアキラに向かって、あっかんべーをして、ヒカルはアキラの部屋を出て行った。
後ろでアキラが可笑しそうに笑っていた。
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