落日 37 - 39


(37)
遠い廊下の端に、ちらりと切りそろえた黒髪が見え、ヒカルは目を見張った。
次の瞬間、彼を追う。
優雅な貴族たちが眉をひそめて自分を振り返る事など気にしない。
おまえなら。
おまえなら、あんな事は言わないだろう。
知らない、などと言いはしないだろう?

どこにいったんだ。いるんだろう?出て来いよ。
見回すと庭の端にまた、彼の黒髪が翻るのが見えた。
「賀茂!」
大声で呼ばわると、彼は訝しげに振り返る。
「なあ、おまえなら、」
そう言いながらヒカルは彼に駆け寄った。
佐為を知らないなんて言わないだろう?皆が嘘を言うんだ。佐為なんか知らないって、そんなの
はいなかったって、皆で俺を騙そうとしているんだ。
でも、おまえなら、おまえならそんな事は言わないだろう?
「賀茂、」
さらりと髪を揺らして向き直った彼はヒカルの顔を真正面から捕らえる。
けれどヒカルを見た彼はまるで知らぬ人を見るような表情でヒカルを見据えた。
「君は……誰?」


(38)
おまえは誰だ、と問われてヒカルは返すべき言葉を失う。
黒く光る一対の眼差しが自分を覗き込んでいる。闇の底のようなその瞳の色に吸い込まれそうに
なり、視界がぐらりと揺れるのを感じた。風景はそのまま歪んで正常な形を失い、足元の地面は
ずぶずぶと沈みこむ泥地に変わる。闇の淵に吸い込まれる。落ちる。堕ちていく。誰もいない、何
の気配もしない、自らの存在さえ定かでない、光さえも届かない虚空の闇。漆黒の闇の中で平衡
感覚を失い膝の力が抜けていくように感じた。

どさり、という音と、全身を打った鈍い痛みで、ヒカルは覚醒した。目を開けると薄墨色の夕空を黒
い雲が覆い始めていた。そうしている間にも、夕闇は刻一刻と濃くなっていく。地平線の近くに雲に
覆われつつある月影が朧に霞んで見えたが、風が雲を押し流し、見る間にその光を隠してしまった。
湿った風が強さを増しつつある。雨が降るのかもしれない。
嵐の予感に、ヒカルはよろよろと立ち上がる。
ふらつく身体を何とか支えながら、ヒカルは誰もいない屋敷を立ち去ろうとした。

当てもなく悄然と歩いていたヒカルの耳に、何か不穏な音が届く。はっと顔を上げると、細い悲鳴
の後にバタバタと数人が駆けてくる音が聞こえ、ヒカルは咄嗟に腰に手をやった。
けれどそこにはいつも差しているはずの太刀は無く、ヒカルはすっと自分が蒼ざめるのを感じた。
なんと言うことだ。
あの音が、都を襲う盗賊どものものだということは、ほぼ確実だ。
それなのに、なぜ自分は丸腰でこのような所にいるのだ。
俺は今まで何をしていた。俺は一体何物だ?
なぜ、何のために俺はこんな所にいる?


(39)
これは罰だ。
薄れそうになる意識の中でヒカルはそんな事を思った。
都を守る検非違使たるものが逆に盗賊に捕らわれて、陵辱を受けている。
耐え難い屈辱と苦痛。
苦しくて、悔しくて、自分の無力さが許せなくて、それなのに自分の肉体はこんな無骨な男どもの
狼藉にさえ快楽を感じ始めてしまっている。
罰だ。
自分の身を案じてくれた友の思いを踏みにじり、寄せられる同情をよい事に自分の欲しいものだけ
を貪り食った事への、自分の務めを忘れ悲しみだけに溺れていた事への、そして何より守るべき人
を守れなかった事への、守らねばならぬことに気付きもしなかった自分自身への罰だ。
だからきっと、俺はこの屈辱を甘んじて受けねばならないのだ。
これは罰だ。
それなのに、こんなに心もは苦しくて、悔しくて、屈辱と嫌悪に嘔吐しそうなのに、身体はこんな奴ら
の陵辱をさえ悦んでいる。もっと激しくもっと乱暴に、この身が壊れてしまうほどに、意識など、想い
など全て手放してしまえるほどに、もっと強く、もっと激しく、更なる陵辱を望む自分が確かにいる。
自分自身の浅ましさに、欲望の醜さに吐き気がする。
こんな醜く汚れた自分には、こんな夜盗こそが相応しいのかもしれないとさえ思う。



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