金魚(仮)(痴漢電車 別バージョン) 38 - 39
(38)
タクシーを待っている間も、それに乗り込んでからもヒカルは楽しそうに笑っていた。
彼の瞳が潤んでいるのも頬が赤いのも、酔っているせいではなく、照れているためだ。少し、
疑わしいが、本人が断固として譲らないので、そういうことにしておいた。
「進藤、入って…」
玄関の灯りをつけて、ヒカルを招き入れた。人気のない廊下の奥を覗き込むようにして、恐る恐る
靴を脱いでいる。
「先生、今度はどのくらい向こうにいるの?」
「来週頭に帰ってくるよ。」
ふーんと呟く声が聞こえた。
だから、遠慮しないで―――――そう言いかけたとき、ヒカルがアキラのジャケットの袖を
ぐいっと引っ張った。
「寂しくネエ?」
寂しい―と、感じたことはない。両親への愛情がないわけではない。ただ、一人になることも
必要だし、今それを実行しているのだ。
もともと、自分は一人でいても、苦にならない。人がいてもいなくても自分の日常生活には
余り関係ないように思えた。
もっとも、これはヒカルのことを抜きにしての話だ。
「キミがいないときは寂しかったけど…」
アキラの言葉にヒカルはくりくりとした大きな目をキョトンとさせていたが、すぐに
にっこりと笑って頷いた。
(39)
暫く居間でお茶を飲んだり、他愛のないおしゃべりをしてすごしたが、時間が経つに連れ、
口が重くなっていく。互いの言葉に対する返事がなおざりなったり、急にソワソワしたり…
『どうしよう…すごく胸がドキドキする…』
落ち着くために、残っていたお茶を一気に呷って、ヒカルに向かって微笑んだ。
「もう一杯、お茶飲む?」
湯飲みを取ろうとした手を彼が軽く押さえた。
「あのさ…オマエの部屋にいかない?」
よく耳を澄まさないと聞き取れないくらい小さな声。俯いている彼の紅く染まった頬が、
前髪の隙間から覗いている。緊張の余り気が付かなかったが、耳も首筋も同じくらい紅い。
添えられた手は小刻みに震えていた。それは彼が震えているためなのか、それとも自分が震えているのかアキラにはわからなかった。
喉の奥がカサカサしている。もう一杯お茶を飲みたいと思ったが、俯いたままのヒカルの気持ちを
考えるとこれ以上ここにいるのは意味がないことだと悟った。アキラは、つばを飲み込んで、
「じゃあ…」とヒカルの手を握ったまま立ち上がった。
「オマエの部屋にいくの初めてだ…」
「そうだね…」
北斗杯以来ヒカルはちょくちょく遊びに来たが、アキラは自分の部屋に彼をあげたことは
一度もなかった。
彼が訪ねてくるときは必ず居間へ通し、障子も隣の部屋へと続く襖も全て開け放った。
二人きりで狭い部屋の中にいるのが息苦しかったのだ。
金魚鉢の中の金魚のように、どこにも逃げ場がなかった。苦しくて、息ができなくて、酸素を
求めて水面に顔を出し、口を開く。どんなに広い場所にいても、ヒカルが側にいるだけで、
途端に酸素が薄くなる。ヒカルの軽い笑い声や甘い体臭がいつも心をざわめかせた。
碁盤の前に座るとそんな気持ちは忽ち霧散してしまうのだが、それでもふと緊張が途切れたときなど、
間近にある彼の柔らかそうな唇や細い首筋につい目を奪われてしまう。
自室の前に着いたときアキラはヒカルの手を強く握った。
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