うたかた 38 - 39
(38)
「光二の部屋に行くのは久しぶりね。」
冴木の愛車のミラーを自分の方に向けて、風で乱れた髪を直しながら由香里が微笑んだ。
「お互い忙しかったからな。」
(ああ、いつも通りだ。オレも由香里も。)
黄色に変わる信号をちらりと見てゆっくり車を停止させると、フロントガラスにぽたりと雨滴が落ちてきた。それを合図にしたかのように、次から次へと降ってくる。
急な雨に歩道をゆく人々の足は自然と速まっていた。傘を持たない人の服が、どんどん湿った色に染まっていく。
(さっきから天気悪かったもんな…進藤はもう家に着いてるかな。)
もしまだ帰る途中だったら────…そういえば、ヒカルは傘を持っていただろうか?持っていたような…いや、やっぱり持っていなかった気がする。
「光二?」
由香里の訝しげな声と、後ろから聞こえるクラクションで冴木は我に返った。
いつの間にか信号は青になっている。慌てて車を発進させると、由香里の刺すような視線を頬に感じた。
「…また考えごと?」
「……今度の対局のことで、ちょっとね。」
「そう…。」
下手な嘘だ、と自分でも思った。由香里から顔を逸らすように、窓の外に視線を投げると、高校生くらいの女の子が傘もささずに泣きながら歩いているのが見えた。なにかあったのだろうか。長い髪は雨で肩に貼り付いて、彼女をよりいっそう哀れに見せている。
一瞬ヒカルがその女の子のように雨に打たれて泣いているんじゃないか、という考えが頭をかすめた。
(まさか…な。)
打ち消しても打ち消しても、嫌な気分は取れなかった。
胸の中が黒煙で満たされたように気持ち悪い。
だめだ。
やっぱり、もうこれ以上自分を欺くことは出来ない。
「由香里、ごめん。」
考えるより先に、勝手に口が動いていた。
「降りてくれ。」
冴木は口早にわめきたてる由香里を車内から追い出すと、ヒカルの家に目標を定めた。雨をはじくワイパーのせわしない音が、ますます心を焦らせる。
由香里との関係はもう修復不可能だけど、後悔はしていない。
今はただ、ヒカルだけを求めていた。ヒカルに会いたくてたまらなかった。これまでこんなにも誰かを渇望したことはあっただろうか。
ヒカルの家の近くに車を止めて、ヒカルの家に向かいながら確認のための電話をすると、ヒカルの母から意外な答えが返ってきた。
「え?…今いない?」
(先輩の家────先輩って…誰だよ…)
いきなり周りのもの全てが色褪せていくようだった。
(……進藤…)
目的地を失って、冴木はしばらく道路の真ん中に立ちつくした。
何故か、泣きながら歩いていた女の子の固く握りしめた拳を思い出した。
(39)
────今の進藤の手は悪手だ。ここで黒は死ぬ。
────上辺も攻めておかないと、左辺の損失を取り戻せない。
盤上で黒に切り込みながら、冴木はもう一度ヒカルの首筋を見た。紅い花びらは変わらずそこにある。
ヒカルの家に行く途中の道で偶然ヒカルを見つけたとき、どれだけ自分が嬉しかったかをヒカルは知らない。
ヒカルを助手席に乗せたとき、どれだけ自分が緊張したかをヒカルは知らない。
冴木さんみたいなお兄ちゃんが欲しかった、というヒカルの言葉が、どれだけ自分を地の底に叩き落としたかを…ヒカルは知らない。
自分がそういう存在としてしか見られてないことは百も承知していた。でも、『いい兄貴分』という役回りは今日で終わりにしてみせる。
気付いていないのなら、気付かせてやればいいのだ。
パチリ。
────これで終局だ。
「……6目半負け…。」
「進藤のこの手は良かったな。これでオレは左辺は諦めなきゃいけなくなる。」
「でも結局こっちで上手く打たれちゃったからさぁ…。」
つい、碁盤よりもシュンとうなだれるヒカルばかりを見てしまう冴木の視線に気付いたのか、ヒカルが顔を上げた。
ふたりの顔は今にも触れ合わんばかりに間近にある。冴木があんまり真っ直ぐ見るのでヒカルは顔を背けたかったのだが、ヒカルの体はまつげを震わすことすら許さなかった。
(氷だ。)
ヒカルの頭に、加賀の瞳と冴木の瞳が交互に浮かんで消えた。
(加賀が炎なら、冴木さんは氷だ。)
冴木が冷たいというわけではない。ただ、心の中にキンと響く瞳が、そう連想させた。
「進藤…」
冴木は動かないヒカルの首筋に顔を寄せ、紅く色づく情痕に舌を這わせた。
「……っ」
びくりと震えるヒカルの肩を抱き、冴木はなおも加賀の痕を塗り替えるように同じ場所に吸い付く。
ぴりっと痛みが走り、ヒカルが甘い溜息をついた。冴木の手がヒカルの腿の内側に滑り込んでくる。
「なん…で‥っ、さえきさ……」
「…好きなんだよ、進藤が…。」
大きく目を見開くヒカルのこめかみに一つ口づけを落として、そのまま耳へと降りていった。
「……進藤…いい?」
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