うたかた 39


(39)
 ────今の進藤の手は悪手だ。ここで黒は死ぬ。
 ────上辺も攻めておかないと、左辺の損失を取り戻せない。

 盤上で黒に切り込みながら、冴木はもう一度ヒカルの首筋を見た。紅い花びらは変わらずそこにある。

 ヒカルの家に行く途中の道で偶然ヒカルを見つけたとき、どれだけ自分が嬉しかったかをヒカルは知らない。
 ヒカルを助手席に乗せたとき、どれだけ自分が緊張したかをヒカルは知らない。
 冴木さんみたいなお兄ちゃんが欲しかった、というヒカルの言葉が、どれだけ自分を地の底に叩き落としたかを…ヒカルは知らない。

 自分がそういう存在としてしか見られてないことは百も承知していた。でも、『いい兄貴分』という役回りは今日で終わりにしてみせる。
 気付いていないのなら、気付かせてやればいいのだ。

 パチリ。

 ────これで終局だ。

「……6目半負け…。」
「進藤のこの手は良かったな。これでオレは左辺は諦めなきゃいけなくなる。」
「でも結局こっちで上手く打たれちゃったからさぁ…。」
 つい、碁盤よりもシュンとうなだれるヒカルばかりを見てしまう冴木の視線に気付いたのか、ヒカルが顔を上げた。
 ふたりの顔は今にも触れ合わんばかりに間近にある。冴木があんまり真っ直ぐ見るのでヒカルは顔を背けたかったのだが、ヒカルの体はまつげを震わすことすら許さなかった。

(氷だ。)

 ヒカルの頭に、加賀の瞳と冴木の瞳が交互に浮かんで消えた。

(加賀が炎なら、冴木さんは氷だ。)

 冴木が冷たいというわけではない。ただ、心の中にキンと響く瞳が、そう連想させた。
「進藤…」
 冴木は動かないヒカルの首筋に顔を寄せ、紅く色づく情痕に舌を這わせた。
「……っ」
 びくりと震えるヒカルの肩を抱き、冴木はなおも加賀の痕を塗り替えるように同じ場所に吸い付く。
 ぴりっと痛みが走り、ヒカルが甘い溜息をついた。冴木の手がヒカルの腿の内側に滑り込んでくる。
「なん…で‥っ、さえきさ……」
「…好きなんだよ、進藤が…。」
 大きく目を見開くヒカルのこめかみに一つ口づけを落として、そのまま耳へと降りていった。
「……進藤…いい?」



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