黎明 39 - 41
(39)
暖められていたはずの室内に足を踏み入れた彼は、一瞬、その冷え冷えとした空気に足を
竦ませた。
それから次の瞬間、駆け寄って彼の身体を力任せに抱きしめた。がくがくと震る細い身体は、
もはや抱きつく力さえ残されていなかった。
彼の身体は恐ろしく冷たかった。彼の衣を剥ぎ、自らの衣を脱ぎ捨て、自らの体熱を移し与え
るように彼の身体を抱きながら、少しでも熱を呼び覚まそうと空いた手で彼の背をさすった。
こんなにも彼の身体が冷え切ってしまった事はこれまでになかった。冷たく芯から冷えた彼の
身体は、抱きしめる己の熱を全て与えても元の通りに温まる事はないのではないのかと思うく
らいに冷たかった。
震えは次第に小さくなり、細い腕は力なく垂れ下がり、呼吸は浅く、白い面には血の色もなく、
アキラは抱きしめた身体から確実に熱が去りつつあるのを感じていた。
ぞくり、と身が震えた。
この震えは、寒さなのか、恐怖なのか。
このまま、彼の身体が冷えたまま、温まる事がなかったら。
目を開けることもなく、冷たく冷えたまま動かなくなってしまったら。
「…ヒカル、」
腕の中のかけがえのない存在が奪われつつある恐怖に震えながら、彼の名を呼んだ。
「ヒカル、」
呼びながら、応える力もない細い身体を抱きしめた。冷たい頬に頬を摺り寄せながら、彼の名
を呼び続けた。背を擦り、冷たい指先を手で包み、身体全体で彼の身体を包み込み、一欠片
の熱も漏らさぬように、この身の発する熱を全て彼に与えられるように。
(40)
ぴくり、と彼の指先が僅かに動いた。一瞬、気のせいかと思った。その次に、小さな息が肩にかかる
のを感じた。腕の中で彼が小さく身じろぐのを感じた。
「…ヒカル?」
僅かに身体を離し、彼の名を呼びながら、顔を覗きこんだ。額に張り付く前髪をそうっと祓うと、彼の
睫毛が小さくふるえ、それからゆっくりと、彼は目を開けた。
開かれた目はけれど虚ろに、アキラを映しはしなかった。
「……ヒカル?」
目の奥に次第に光がともり、ゆっくりと焦点の合ってきた目は何かを探すように宙を彷徨う。その眼
差しが、何かを捕えたように、ある一点で止まり、そこを凝視した。
アキラは息を飲んで彼の眼差しの追う、何もないその空間を振り返った。
「佐為。」
か細くはあるけれど、はっきりとした声が、かの人の名を呼んだ。
けれど応えは無い。あろう筈がない。
身動き一つする事もできずに、いないはずの人を見つめる彼の眼差しを、凍える思いで見つめた。
中空を凝視していた目の光がゆっくりと薄れ、諦めたように閉じられた瞼から一筋の涙が流れ落ちた。
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僅かに温かみの戻ってきた身体を、そっと抱いた。
抱え込むように彼の頭を胸に抱くと、暖かい涙が胸に落ちるのを感じた。
声にならない声で彼の名を呼ぶと、呼び声に応えるように彼の腕が背に回された。
静かな呼吸を、吐く息を、重なり合った胸に響く彼の鼓動を、確かに感じた。
彼の髪は柔らかく、彼の肌は滑らかで温かく、微かながらもその息遣いは確かで、裸の胸に感じる
湿った吐息から、彼の身体全体から、甘い香りが薫るような気がした。
確かに温かく息づいている肌の温もりは心地良く、ぴったりと触れ合った皮膚を通して彼の熱が己
の身体に流れ込んでくるのを感じる。同時に自分の体温もまた彼を暖めているのを感じる。
そうしてじっと彼を感じていると、鼓動も、体温も、吐く息も、全てが一つに溶け合って、体全体が彼
と溶け合って一つになってしまったかのような錯覚を感じる。
錯覚に過ぎないことを意識の片隅に置きながら、けれどこのひと時だけ、喪われずにすんだ温もり
を抱きながら、彼は優しく暖かい、束の間の儚い夢にしばしまどろんだ。
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